黒塗桐紋鞍・鐙 伊勢駿河守貞雅作
徳川家康所用
2024年7月27日(土曜日)から9月16日(月曜日・祝日)
<終了しました>
夏季特別展 もののふの備え
「甲冑の美学」「馬とともに」
- ■会場
- 徳川美術館本館展示室 蓬左文庫展示室
- 武家社会において馬術は必須の嗜みであり、馬の気高い姿は称賛され美術の対象にもなりました。武士とともに生きた馬の魅力を、多様な作品を通して紹介します。
展示の詳細案内
平治物語絵詞 六波羅行幸巻(模本) 今村随学筆
(へいじものがたりえことば ろくはらぎょうこうのまき いまむらずいがくひつ)
「平治物語絵詞」は平安時代末期、後白河院の院政下で絶大な権力を有した信西(しんぜい・藤原通憲(みちのり))と藤原信頼(のぶより)との対立、これに結びついた平清盛と源義朝との争乱である平治の乱(1159)を描いています。本品は「平治物語絵詞」のうち、藤原信頼によって御所に幽閉されていた二条天皇が、女房姿に変装して、六波羅の平清盛のもとへ脱出する経緯を描いた「六波羅行幸の巻」の模写本です。六波羅邸前には大鎧を着けた武将が警護のため集まる様子が描かれ、ものものしい雰囲気を伝えています。
江戸時代
天明元年(1781年)
蒙古襲来絵詞(模本) 下巻 三巻の内 神谷元秋筆
(もうこしゅうらいえことば)
文永11年(1274)と弘安4年(1281)の二度にわたる元寇(げんこう・モンゴルからの襲来)の様子を描いた絵巻です。 原本は御物で、この絵巻は尾張徳川家九代宗睦(むねちか)の嫡男治行(はるゆき)の要望により、寛政8年(1796)に製作されました。この絵巻には、戦の様子や武家の風俗が詳細に描き込まれており、当時の様子を伝える重要な絵画です。
本品の見せ場の一つで、竹崎季長一行が博多湾の生の松原に築いた石築地を通る場面では、赤糸威・樫鳥威・萌黄威・逆沢瀉威など、綺羅を尽くした色とりどりの甲冑が描かれています。
江戸時代
寛政8年(1796年)
建中寺蔵
紅・白・花色・紺段威具足 林孫四郎・茂右衛門尉作
(べに・しろ・はないろ・こんだんおどしぐそく)
徳川家康に近侍した武士が着用したとされる具足の一つで、尾張徳川家本『駿府御分物御道具帳』第四冊「色々御道具帳」に記されている近侍具足十六領のうちの一領です。五七桐紋があることから、かつては豊臣秀吉の影武者が着用したと誤って伝承されていました。蒔絵を施し、裂(きれ)は金襴を用いるなど、絢爛豪華な桃山文化を象徴する華麗な具足です。 錣鉢付の板と頬当裏に「茂右衛門尉」、左臑当の裏に「林孫四郎」と朱漆で記されており、ともに甲冑の製作者名と思われます。
徳川家康近侍着用(駿府御分物)
桃山時代から江戸時代
16世紀から17世紀
銀箔置白糸威具足
(ぎんぱくおきしろいとおどしぐそく)
鉄板に銀箔を置き、白糸で威した本品は、秀麗さとともに精悍な姿です。関ヶ原の合戦で、松平忠吉は敵中突破した島津義弘勢に追いつき、島津家の家臣・松井三郎兵衛と組み打ちとなって、討ち取る功績を挙げました。この折、本具足に返り血が着いたとされていますが現在では判然としません。合戦後、忠吉は尾張国清須の城主となり、尾張の領国整備に努めましたが、後継ぎが無いまま28歳で病歿し、忠吉の遺領や家臣は弟の義直が受け継ぎました。
松平忠吉(徳川家康4男)着用
桃山時代
16世紀
朱塗啄木糸威具足 春田吉次・加藤彦十郎作
(しゅぬりたくぼくいとおどしぐそく)
本品には寛永3年(1626)に尾張徳川家初代義直が三領作らせ、弟の頼宣(紀伊家初代)・頼房(水戸家初代)にそれぞれ一領ずつ贈ったという記録が伴っています。作者は尾張の具足師たちで、春田吉次が鍛冶、塗と威は加藤彦十郎が携わりました。兜と胴には鉄炮試し撃ちの跡が残っています。啄木(たくぼく)糸とは、白・萌黄・紫などの色糸を交えて組んだ紐で、キツツキの啄(ついば)んだ跡に似ているところから生じた呼び方です。
徳川義直(尾張家初代)着用
江戸時代
寛永3年(1626年)
錐形兜(黒塗黒糸威具足 附属)
(きりなりかぶと(くろぬりくろいとおどしぐそく ふぞく))
尾張徳川家初代義直は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣で、父家康と共に参戦し、初陣をかざりました。その際に着用した甲冑に附属する兜です。義直は翌20年の夏の陣にも出陣し、この甲冑を着けたと伝えられています。三角錐形の兜の後立には山鳥の尾羽根がつけられています。当時、義直は15、6歳で、一般の具足に比べて小振りに製作されています。一見すると簡素な兜にみえますが、兜の黒漆は蠟色塗(ろいろぬり)という黒漆の表面を研ぎ磨いて鏡のような光沢を出す手の込んだ技法で製作されており、天下人・家康の御曹司の初陣用ならではの具足です。
徳川義直(尾張家初代)着用
江戸時代
17世紀
長烏帽子形兜
(ながえぼしなりかぶと)
幼い頃から秀吉に仕えた加藤清正(1562から1611)の銀の長烏帽子形兜です。鉄の鉢に、後ろ上方に長く伸ばした烏帽子形は、紙を貼り合わせて成形されています。この紙には清正が自筆で「南無妙法蓮華経」と書いた紙が数百枚貼られていると伝えられています。清正の一代記『清正記』に、慶長3年(1598)朝鮮・蔚山の戦で「例之銀之長帽子の甲を着」と、この兜を着用した記事があります。
加藤清正着用・紀伊徳川家伝来
桃山時代
16世紀
黒熊毛植三十ニ間筋鉄兜 明珍信家作
(こぐまげうえさんじゅうにけんすじてつかぶと みょうちんのぶいえさく)
尾張徳川家14代慶勝(1824から83)が着用した黒塗紺糸威具足に附属する兜で、嘉永2年(1849)に甲冑師・明珍信家によって製作されました。慶勝は元治元年(1864)幕府の命で禁門の変を起こした長州藩に処分を下すため征長総督に任命され、幕府軍を率いて広島まで赴きました。この出征時に携えたのが本具足です。兜の鉢に植えられた黒い熊毛は、他にも類例があり、幕末維新期の武装における流行とみられます。
徳川慶勝(尾張家14代)着用
江戸時代
嘉永2年(1849年)
黒塗勝糸威鎧
(くろぬりかちいとおどしよろい)
当世具足の胴に大袖を付けるなど、完全な大鎧形式ではありませんが、江戸時代中期以降に盛んに製作された復古調鎧の一種です。小札・草摺・錣を金箔置きとし、籠手の手先筒には蒔絵で龍を施すなど、尾張徳川家の御曹司が着用するに相応しい作りとなっています。着用者の松平勝長(かつなが・1737から1811)は、尾張徳川家八代宗勝(むねかつ・1705から61)の六男で、従四位下左近衛権少将という官位を得ましたが、独立した大名とはならず、明和7年(1770)以降は名古屋城東御殿(三之丸御屋形)で暮らしました。
松平勝長(尾張家8代宗勝6男)着用
江戸時代
18世紀
紫檀製「翁澤」置物 伊勢貞門作
(したんせい「おうたく」おきもの いせさだかどさく)
尾張徳川家十四代慶勝(よしかつ・1824から83)の御召馬(おめしうま・(貴人の馬のこと)を写した像です。ハリのある筋肉質な体つきや豊かな鬣(たてがみ)など、馬の力強くもしなやかな姿が克明に写し取られています。
この馬は慶勝の父・松平義建(よしたつ)の御召馬でしたが、慶勝が懇望して貰い請け、翁澤と名付けました。慶勝はよほどこの馬を気に入ったらしく、名古屋城の多門櫓に保管してあった紫檀材を下げ渡し、尾張藩の御鞍打師(おくらうちし)だった伊勢貞門に命じてその姿を写させたといいます。
徳川慶勝(尾張家14代)所用
江戸時代
19世紀
長篠合戦図屛風 六曲一隻
(ながしのかっせんずびょうぶ)
南北朝時代頃より戦国時代にかけて、戦いは歩兵による集団戦へと次第に変化していきますが、騎馬武者は依然として軍事力の中心にありました。その流れの中、長篠合戦は史上初めて鉄炮を大量かつ組織的に使用した戦いとして重要です。
本屛風は、天正3年(1575)5月、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いが描かれます。近年では武田軍の騎馬隊の存在は否定されており、馬防柵に阻まれて鉄炮の攻撃を受けた多くは歩兵であったと考えられています。
江戸時代
18世紀から19世紀
展示期間:2024年8月14日(水曜日)から9月16日(月曜日・祝日)
要馬之図 巻二 八巻の内
(ようばのず)
朝鮮流馬術の伝書で、朝鮮・日本それぞれの馬上武芸について、要点を捉えて図に表しています。刀剣・弓・鉄炮など武器を用いた戦闘術のほか、朝鮮流馬術では、鞍の上で直立する、走る馬から身を乗り出すなどの離れ技も描かれています。宛名は不明ですが、尾張藩士・寺田四郎左衛門の名が奥書にあり、江戸時代中期の尾張藩では朝鮮流馬術に関心が寄せられていたと考えられます。
江戸時代
宝永5年 (1708年)
調馬図屛風 六曲一双
(ちょうばずびょうぶ)
武士が馬を乗りならして調教する場面を描く調馬図は、近世以降、武士の良馬に対する愛好に伴い、武家風俗図の一ジャンルを成しました。本屛風では金箔地に金雲・金霞・金砂子を用いた華やかな画面に、埒(らち)に囲われた馬場で美しい装いの武士たちが乗馬の訓練をする様子が両隻にわたって描かれています。装飾的で華やかな画面からは、本屛風が武士の鍛錬を奨励する目的というよりも、乗馬の美しさを鑑賞者に伝えようとしていることが伝わってきます。
尾張徳川家伝来
岡谷家寄贈
江戸時代 17世紀
展示期間:右隻:2024年7月27日(土曜日)から8月13日(火曜日)、
左隻:8月14日(水曜日)から9月16日(月曜日・祝日)
狩猟図彫彩漆盆
(しゅりょうずちょうさいしつぼん)
騎馬の狩猟の光景を表した、南宋時代に遡る優品の盆です。近景には七宝繋の地文に馬に乗って佇む五騎、遠景には網目の地文に山間を疾走して狩猟する三騎を配し、一騎は遠景から近景へと近づく場面です。遠景を駆ける馬の鬣(たてがみ)や尾が風に大きく靡(なび)いて躍動感を生み出し、近景の馬は足首の毛までも綿密な毛彫によって表現されます。内側面には山岳に雁や鷺などの鳥、外側面には野山に息づく鹿や猪、狐たちが網目地に配され、盆全体に狩猟にまつわる物語的世界が描き出されています。
南宋時代
13世紀
黒塗桐紋鞍・鐙 伊勢駿河守貞雅作
(くろぬりきりもんくら・あぶみ いせするがのかみさだまささく)
徳川家康が数度の合戦で使用したと伝わる鞍・鐙で、鞍の前輪(まえわ)・後輪(しずわ)と鐙の中央に大きな赤銅色絵の五三桐紋を付けます。鐙の首の部分には燕の透かし彫りを施し、鞍の居木裏(いぎうら)には燕紋・三本沢瀉紋・伊勢駿河守貞雅の入道号「照安」の花押があります。一般に黒漆塗の馬具は軍陣用とされ、馬の背に深く腰かけ、戦闘での激しい動きにも耐えられる構造になっています。加飾を控えた黒一色のシンプルな造りでありながら、堂々と配された桐紋が際立ち、騎乗者の武威を輝かせたことがうかがえます。
徳川家康所用
桃山時代から江戸時代
16世紀から17世紀
螺鈿梅花形楼閣人物図食籠(部分)
2024年6月8日(土曜日)から7月21日(日曜日)
<終了しました>
企画展
「ハマる!工芸」
- ■会場
- 蓬左文庫展示室
- 漆工品や金工品、焼物などの工芸品には、巧みな素材の組み合わせや卓越した技術が隠されています。「ハマる」をキーワードに、工芸品の様々な姿や秘密に迫り、その魅力にハマってみてください。
展示の詳細案内
漆工品や金工品、陶磁器などの工芸作品には、時に異なる素材が巧みに組み合わされています。文様を彫り、別の素材を嵌め込む象嵌や、貝片を漆器や木地に嵌めたり貼ったりして装飾する螺鈿は、作り手の卓越した技術の結晶です。また、様々なものを収める箱も木の組み方や収納の仕方に工夫が凝らされ、隙間なく嵌まるように作られています。
本展では数ある工芸技術の中でも、こうした素材や形がぴったりと組み合わされた「ハマる(嵌る)」側面に着目し、工芸作品の様々な姿や秘密に迫ります。
三島牡丹文俵形花生
(みしまぼたんもんたわらがたはないけ)
牡丹の文様が白く表されています。これは器本体の土から文様を削り取り、異なる色の土を嵌め込んでいるためです。こうした技法を「象嵌(ぞうがん)」と言い、この花生のような三島手のほか、青磁に象嵌を施した象嵌青磁も陶磁器の象嵌の代表的な技法です。文様が器本体の色と異なるため、文様部分が際立ちます。
朝鮮王朝時代
15世紀から16世紀
花鳥七宝繋文密陀絵沈金御供飯
(かちょうしっぽうつなぎもんみつだえちんきんうくふぁん)
御供飯は半球形の蓋に、高い脚のある琉球独自の器で、祭祀道具として用いられました。
全体が朱漆で塗られ、その上に沈金(ちんきん)や密陀絵(みつだえ)が施されているため、内部構造を知ることはできませんでした。脚の部分は寄木造のように複数の木材を組み合わせて作られています。蓋は上部から側面にかけて、こんもりとした曲面になっています。木材をお椀のような曲線を持つ形にする方法として、一般的には刳物(くりもの)と呼ばれる、鑿(たがね)や鉋(かんな)で刳り抜く方法、挽物(ひきもの)と呼ばれる、ろくろを使って加工する方法があります。しかし、これは巻胎(けんたい)というテープのような細い木材をぐるぐる巻きにして曲面を形作り、その上に蓋の上部となる板を嵌め込んで作られています。
琉球時代
16世紀から17世紀
徳川家康・徳川義直(尾張家初代)所用
重要文化財
山水楼閣人物図堆錦重箱
(さんすいろうかくじんぶつずついきんじゅうばこ)
朱漆塗りに堆錦を施した、五段の大型の重箱です。黒・茶・緑・黄の堆錦餅(ついきんもち)で、楼閣山水を表しています。堆錦を用いて作品を製作する際、葉や岩肌など繰り返し同じ文様が登場する場合にはスタンプを用いて凹凸をつけることがありますが、この重箱の場合には、線の上に引っ掻いたような痕跡が見られることから、一つ一つ職人の手で凹凸がつけられたと考えられます。
琉球時代
19世紀
三上家寄贈
雲龍文螺鈿盆
(うんりゅうもんらでんぼん)
江戸時代の琉球国王は、薩摩藩島津家と中国の双方に仕える体制を採っており、特に中国向けの贈答品としてこのような盆は貝摺(かいずり)奉行所でさかんに製作されました。
五爪龍(ごづめりゅう)は中国皇帝の象徴で、龍の意匠の中でも最高級の意匠です。龍の顔・足・胴などのパーツごとに薄貝(うすがい)を切り出して形作っています。また龍の鬣(たてがみ)や鱗(うろこ)は黒漆を塗って貝を押さえ、研ぎ出してから毛彫りして表しています。龍の尾には8センチにもなる大きな薄貝を用いており、技術力の高さがうかがえます。
琉球時代
18世紀から19世紀
螺鈿梅花形楼閣人物図食籠
(らでんばいかがたろうかくじんぶつずじきろう)
貝は場所や個体によって光沢が異なります。作品製作にあたり、貝の色を選り分けて用いている場合もあります。用いられている貝片の中に、青く輝く部分と、ピンク色に輝く部分があることに気づきます。例えば、装束が青い時には帯をピンクに、木の幹を青に、葉はピンクに光るようにして、意匠の色彩を構成しています。
明時代
15世紀から16世紀
挿花図螺鈿軸盆 朱漆銘 大明皇慶年製
(そうかずらでんじくぼん しゅうるしめい だいみんこうけいねんせい)
非常に薄くて細かなヤコウガイの貝片を組み合わせ、そこに繊細な毛彫りも施しつつ、たっぷりと生けられた花が表されています。花器には尾長鳥(おながどり)を、花台には雷文繋や六花菱文を表し、念入りに作り込まれており、凜とした空気感に包まれています。
元時代
14世紀
月岡芳年画 雪月花の内 月
市川三升 毛剃九右衛門
2024年4月13日(土曜日)から6月2日(日曜日)
<終了しました>
企画展
「人・ひと・ヒト 浮世絵の人と顔」
- ■会場
- 蓬左文庫展示室
- 浮世絵の歴史の中で中心的ジャンルを占めていたのは美人画と役者絵でした。人間が風物にまさる最大の関心事だったのです。誰を描くか、どう描くかなど、浮世絵の人物表現の諸相を紹介します。
展示の詳細案内
浮世絵の歴史を通じて中心的なジャンルは美人画と役者絵です。これは人物を描くことが浮世絵の最大の関心事であったことを示しています。時代がくだって登場した浮世絵師の歴史画や風景画でも、人物表現が重要な役割を果たすことが多くありました。
本展では、浮世絵において、誰を描くか、どのように描くかなど、さまざまな視点から浮世絵の人物表現の諸相を、徳川美術館、名古屋市博物館、そして名古屋市蓬左文庫のコレクションから紹介します。
雪月花の内 月 市川三升 毛剃九右衛門 大判錦絵三枚続
(せつげっかのうちつき いちかわさんしょう けぞりくえもん)
三枚続きの横長の画面に、役者の上半身をアップで印象的に描いています。似顔大首絵ですが、江戸時代の大首絵とは印象が異なります。随所に見られる微妙な陰影表現は、西洋画の写実的な表現を消化しきった時期の作であることを示しています。芳年は、そうした近代的感覚と歌舞伎の「和」を巧みに共存させた新しい境地を見せています。
月岡芳年画
明治23年(1890)
徳川美術館蔵
相馬の古内裏 大判錦絵三枚続
(そうまのふるだいり)
妖怪が現れると聞き、大宅太郎光国が荒れ屋敷を訪ねると、平将門の遺児・滝夜叉姫が、光国を脅かそうと妖術を仕掛け、骸骨を出現させます。原話では、等身大の骸骨が数百体出現しますが、闇の中からぬうっと現れる巨大な骸骨に変換させたところがまさに国芳の真骨頂。空想の世界ながら不思議なリアリティに満ちた図となっています。
歌川国芳画
江戸時代 19世紀中期
高木繁コレクション
名古屋市博物館蔵
山海めでたいつゑ 十 天気にしたい 土佐鰹節 大判錦絵
(さんかいめでたいつえ じゅう てんきにしたい とさかつおぶし)
手にする人形には「てりてり」とあり、「照り照り」すなわちてるてる坊主です。枠内の絵は、鰹節を作る作業の風景で、乾燥させるため、「天気にしたい」と晴れを願う図です。吊り上がった目や突き出した下唇などは幕末の女性表現に共通していますが、妖艶ではなく、身近にいる元気な町娘といった風情が持ち味で、親しみやすく描かれています。
歌川国芳画
江戸時代 嘉永5年(1852)
尾崎久弥コレクション
名古屋市博物館蔵
保永堂版東海道五拾三次之内 藤枝 人馬継立 横大判錦絵
(ほえいどうばんとうかいどうごじゅうさんつぎのうち
ふじえだ じんばつぎたて)
藤枝の問屋場(宿場間の輸送業務を担う)で、次の宿場へ荷物を送り継ぐための手配がおこなわれています。書類の確認をする役人にくってかかる人がいる一方で、積み荷を直したり、一服したりと、それぞれがつかの間の休息時間を過ごしています。肩肘張らない広重の人物描写の真骨頂がここにあります。
歌川広重画
江戸時代 19世紀前期
名古屋市博物館蔵
生月鯨太左衛門 横大判錦絵
(いきつきげいたざえもん)
尾張徳川家13代藩主慶臧の浮世絵コレクションには、生月鯨太左衛門(1827から50)の相撲絵が3点含まれています。生月は身長が7尺5寸(227cm)、体重が45貫目(169kg)という巨漢力士でした。本品は生月が18歳、江戸相撲デビュー間もない頃で、化粧まわしを着けた生月の姿とその手形です。別作品に「手形一尺八分」(32.7cm)という記述があり、本図の手形の実測値はそれに近く、実際の手形を摺ったのかと想像が膨らみます。
歌川国貞画
江戸時代 弘化元年(1845)
徳川美術館蔵
としよりのよふな若い人だ 大判錦絵
(としよりのよふなわかいひとだ)
人を集めて人の顔が作られています。「嵌め絵」あるいは「寄せ絵」といわれ、国芳の同趣向の作品は、本図を含めて4点が知られています。目と頬は人の後ろ姿、それを下から支える人が顎になり、鼻は足、髪も着物も手も人の寄せ集めでできています。国芳の発想力のすごさに驚かされる作品です。
歌川国芳画
江戸時代 19世紀中期
尾崎久弥コレクション
名古屋市博物館蔵
本文終了