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これまでの展示案内


コレクションが語る蓬左文庫のあゆみ

平成28年1月5日(火曜日)から4月10日(日曜日)
<終了しました>

徳川美術館・蓬左文庫開館80周年記念

コレクションが語る蓬左文庫のあゆみ

会場
蓬左文庫 展示室 1・2
平成27年、尾張徳川家19代・徳川義親氏が東京目白に蓬左文庫を開館してから80年を迎えます。江戸時代の「御文庫」、明治維新から蓬左文庫設立に至る黎明期、戦後の名古屋移転から現在まで、各時代における豊かなコレクションとその収集過程にスポットを当て、蓬左文庫の歴史とコレクションの全貌に迫ります。

展示の詳細案内

平成27年(2015)11月、尾張徳川家十九代義親【よしちか】が、東京目白の邸内に蓬左文庫を開館してから80年を迎えました。蓬左文庫は尾張徳川家の歴代当主が収集した書物を中心に、貴重な古典籍を多く所蔵しています。江戸時代後期には藩による学問振興にともなって新たな蔵書が加わり、蔵書は藩士たちにも広く活用されました。明治以降にも旧藩士から寄贈された書物、名古屋の蔵書家から寄贈された本などが加わり、現在では極めて多彩なコレクションを所蔵しています。これらのコレクションとその収集過程は、それ自体が蓬左文庫の歴史を物語るものだといえます。この展覧会では、江戸時代の「御文庫【おぶんこ】」、明治維新から蓬左文庫設立に至る黎明期、戦後の名古屋移転から現在まで、各時代におけるコレクションにスポットを当てることで蓬左文庫のあゆみを振り返ります。

源氏物語の世界

平成27年11月14日(土曜日)から12月13日(日曜日)
<終了しました>

源氏物語の世界-平安の恋物語-

会場
蓬左文庫 展示室 1・2
『源氏物語』は平安時代以来、日本人に愛され続きてきた文学作品であり、数えきれないほど多くの絵画作品が生み出されてきました。「重要文化財 河内本源氏物語」をはじめ、尾張徳川家に伝来した『源氏物語』の写本や絵画作品の優品を紹介します。

展示の詳細案内

紫式部によって著された『源氏物語』は、成立以来愛読され、数多くの写本が作られました。この転写の過程でさまざまな異本が生じ、藤原定家(1162から1241)によって校訂された青表紙本系、源光行(1163から1244)・親行(生没年未詳)父子の校訂による河内本系および、これらに属さない別本系に大別されています。本展覧会では、肥前平戸家に伝来した別本系の「源氏物語松風」をはじめ、藤原定家の青表紙本系の重要文化財「源氏物語早蕨」や三条西家本などの青表紙本、河内本系の最古写本であり、近年の研究で光行・親行父子が校訂のために用いた本であることが判明した重要文化財「河内本源氏物語」など、『源氏物語』の代表的諸本を展示します。また国宝「源氏物語絵巻」に次ぐ現存二番目に古い「源氏絵」として知られる重要文化財「源氏物語絵詞」、土佐光則筆「源氏物語画帖」など絵画化された『源氏物語』の諸作品を合わせて展示し、その享受の歴史をたどります。

豊かなる朝鮮王朝の文化

平成27年9月19日(土曜日)から11月8日(日曜日)
<終了しました>

徳川美術館・蓬左文庫開館80周年記念 秋季特別展
日韓国交正常化50周年記念展

豊かなる朝鮮王朝の文化-交流の遺産-

記念講演会
「朝鮮本と蓬左文庫」

講師:藤本幸夫氏(富山大学名誉教授)
日時:9月19日(土曜日) 午後1時30分から3時(開場1時)
場所:徳川美術館講堂
聴講料:無料(※徳川美術館の入館料必要)
定員:150名

記念シンポジウム
「お互いを理解する道のり-江戸時代の日韓交流-」

講師:
池内敏氏(名古屋大学教授)の司会 夫馬進氏(京都大学名誉教授) 田代和生氏(慶應義塾大学名誉教授)
日時:11月7日(土曜日) 午後1時30分から(開場1時)
場所:徳川美術館講堂
聴講料:無料(※徳川美術館の入館料必要)
定員:当日先着100名

会場
蓬左文庫 展示室 1・2
朝鮮王朝との関係修復に努めた徳川家康は、朝鮮で刊行された金属活字本をはじめ、隣国の優れた文化にも関心を寄せていました。尾張徳川家に伝わった家康旧蔵の朝鮮本や、高麗・朝鮮美術の名品、朝鮮通信使に関する記録などを通して、朝鮮王朝の豊かな文化と両国の交流を振り返ります。

展示の詳細案内

第一章 書物からみる朝鮮王朝と日本
1 朝鮮本の世界
朝鮮半島では早くから金属活字による印刷が行われ、古くは高麗時代(918から1392)の十四世紀に印刷された本が現存する。続く朝鮮王朝の時代(1392から1910)には、王朝が独自の金属活字を鋳造して多くの書物を印刷し、活字印刷は隆盛を迎えた。王朝が刊行した書物には大きく良質な料紙が用いられ、印刷の質も極めて高いものであった。書物の内容は儒学(朱子学)を統治理念とした朝鮮王朝らしく、中国で著された儒学書や詩文集などの古典、朝鮮で編さんされた儒学に関する書物や歴史書が中心であった。
蓬左文庫には徳川家康の遺産である「駿河御譲本【するがおゆずりぼん】」を中心に、朝鮮王朝時代の書物(朝鮮本)が数多く伝わり、世界有数のコレクションとなっている。これらの中から代表的な書物を選び、朝鮮王朝の豊かな書物文化の一端を紹介する。

内訓(朝鮮金属活字本) 蓬左文庫蔵内訓(朝鮮金属活字本) 蓬左文庫蔵

2 朝鮮本と日本の書物文化

重要文化財 駿河版銅活字 印刷博物館蔵
重要文化財
駿河版銅活字 印刷博物館蔵

 朝鮮の活字本が渡来した十六世紀末、日本でも活字による書物の印刷が試みられた。イエズス会によるキリシタン版を除けば、日本における活字本の印刷は文禄2年(1593)、後陽成天皇【ごようぜいてんのう】が朝鮮製活字を用いて印刷させたとされる『古文孝経【こぶんこうきょう】』(現存せず)に始まる。天皇はこれに続いて慶長年間に木活字によって十一種の書物を刊行した(慶長勅版【けいちょうちょくはん】)。
 これとほぼ同時代、徳川家康も山城国・円光寺【えんこうじ】で木活字本を印刷している。さらに家康は独自に銅活字を鋳造させ、駿府で金属活字による印刷を実現した(駿河版)。家康に限らず、この時代には、豊臣秀頼【とよとみひでより】や京都の豪商・角倉素庵【すみのくらそあん】らも木活字本を刊行している。ここでは、「古活字版」と総称されるこれら日本の活字本を、朝鮮本との関係にも着目しながら紹介する。

第二章 高麗・朝鮮美術と日本

1 高麗の仏教美術

阿弥陀八大菩薩像 徳川美術館蔵
阿弥陀八大菩薩像 徳川美術館蔵

 高麗時代(918から1392)は、統一新羅【しらぎ】時代に隆盛を極めた仏教がそのまま継承され、華厳経【けごんきょう】の思想を国家護持の理念とし、さらに中国・元王朝による圧迫のなかで、宮廷周辺を中心に阿弥陀浄土信仰が隆盛していった。この時代には、繊麗巧緻な技法に富む、品格と尊厳性にみちた仏画が生み出され、最盛期を迎えた。
 また、経典も数多く製作され、ことに紺紙金字経【こんしきんじきょう】は独特の様式を持っている。すなわち、折本装であること、縦が31cm前後と大きく、界高が20cm前後と余白の部分が広いこと、表紙に描かれる独特の宝相華文【ほうそうげもん】、外題【げだい】の上に付されている以字点【いじてん】と呼ばれる印、金銀泥【きんぎんでい】による精緻な線描の見返絵【みかえしえ】を持つことが特徴である。

2 工芸品

 朝鮮の活字本が日本へ渡来した十六世紀、朝鮮王朝時代には、陶磁器や漆器、金属器などの工芸技術が高まりをみせた。鼠色の胎土【たいど】に象嵌【ぞうがん】や掻き落としなどで白土装飾を施した粉青沙器【ふんせいさき】や白磁が生産されるようになり、大らかで温かみのある独自の風趣をともなった陶磁器が登場した。また、唐草文様で器全体を精緻に装飾する螺鈿【らでん】や、独特の金属象嵌【ぞうがん】技法が文房具などの器物を飾った。
 茶人たちによって「三島【みしま】」などと呼ばれた粉青沙器をはじめ、これらの器物はその美意識とともに、交流の中で海を越え、日本でも珍重されてきた。尾張徳川家に古くから伝来した数々の作品からは、江戸時代の日本人に大きな影響を与えた、朝鮮王朝の美意識がうかがえる。

第三章 朝鮮通信使と両国の交流

1 朝鮮通信使の饗応と交流

朝鮮人物旗仗轎輿之図(部分)
朝鮮人物旗仗轎輿之図(部分)

 徳川家康はそれまで断絶していた朝鮮王朝との関係修復に努め、慶長12年(1607)には朝鮮からの使節来日が実現した。寛永13年(1636)、四度目の来日となる使節からは「通信使」が正式な名称となり、これ以後、朝鮮通信使は文化8年(1811)に至るまで、将軍代替わりの祝賀などを機にたびたび来日した。
 朝鮮国王の国書を奉じた通信使は、正使・副使・従事官の三使を中心に、多くの随員を伴って江戸に向かい、道すがら各大名家から手厚い饗応を受けた。通信使が休泊する先々では各藩の儒学者や文人が、漢詩文や書画の贈答を求めた。通信使が残した書画や漢詩文は各地に伝わっており、儒学や漢詩文という共通の教養を通して、交流を深めた様子がうかがえる。

朝鮮通信使行列図屏風 六曲一双の内 崇覚寺(名古屋市中区)蔵朝鮮通信使行列図屏風 六曲一双の内 崇覚寺(名古屋市中区)蔵

2 祭礼のなかの「唐人【とうじん】」と朝鮮通信使

 江戸時代に日本各地で行われた祭礼には、しばしば「唐人」と呼ばれる異国風の装束をまとった練り物が出され、非日常的な祭りの場を演出した。この時代、「唐人」とは中国人のみを指すことばではなく、朝鮮人や南蛮人などを含む「異国人」全般を指して使われた。
 江戸時代初めの「唐人」練り物は南蛮風の装束が中心であったが、朝鮮通信使が繰り返し来日し、そのイメージが人々の間に浸透するにつれて、「唐人」にも通信使のすがたが色濃く投影されるようになった。ここでは、この地域の祭礼に登場した唐人練り物などから、祭礼のなかに取り入れられた通信使のすがたを紹介したい。

한일국교정상화 50주년 기념 <풍요로운 조선왕조의 문화 –교류의 유산- >

제1장 서책을 통해 보는 조선왕조와 일본
1. 조선 고서의 세계
한반도에서는 일찍이 금속활자를 통한 인쇄가 이루어졌으며 현존하는 가장 오래된 금속활자본은 14세기 고려시대(918~1392)에 인쇄된 것이다. 이어지는 조선시대(1392~1910)에는 왕실이 자체적으로 금속활자를 주조해 많은 서적을 인쇄하면서 활자 인쇄가 융성기를 맞이하게 된다. 이러한 책에는 크고 질 좋은 종이가 사용되었고 인쇄의 질도 대단히 뛰어났다. 책의 내용은 유학(주자학)을 통치이념으로 삼은 조선 왕조답게 중국의 유학서나 시문집 등의 고전, 혹은 조선에서 나온 유학 관련 서적이나 역사서가 주류를 이룬다.
호사문고는 도쿠가와 이에야스의 유산인 ‘스루가 어양본(駿河御讓本)’을 중심으로 조선시대의 서적을 다수 계승하여 세계적인 수준의 컬렉션을 보유하고 있다. 이 가운데 대표적인 서적을 엄선하여 조선왕조의 풍요로운 서책 문화의 한 단면을 소개한다.

内訓(朝鮮金属活字本) 蓬左文庫蔵内訓(朝鮮金属活字本) 蓬左文庫蔵

2.조선의 고서와 일본의 서책 문화

 조선의 고활자가 전해진 16세기말, 일본에서도 활자로 책을 인쇄하기 위한 움직임이 일어난다. 예수회가 제작한 인쇄물을 제외하면 일본 활자본 인쇄의 시초는 분로쿠 2년(조선 선조 26년, 1593)에 고요제이 덴노가 조선에서 만들어진 활자를 이용해 인쇄한 것으로 알려진 《고문효경》(현존하지 않음)이다. 덴노는 이어서 게이초 연간(1596~1615)에 목활자를 이용해 11종의 서책을 간행했다(게이초칙판). 이와 거의 같은 시대, 도쿠가와 이에야스도 교토의 사찰 엔코지에서 목활자본을 인쇄한다. 이에야스는 또한 독자적으로 동활자를 주조하여 금속활자 인쇄에 성공했는데 스루가 지방(현재의 시즈오카현 중부지역)에서 만들어져 스루가판이라 한다. 이에야스뿐 아니라 이 시대에는 도요토미 히데요시의 아들인 히데요리나 교토의 거상 스미노쿠라 소안 같은 이들도 목활자본을 간행하였다. 본 절에서는 ‘고활자판’으로 통칭되는 일본의 이들 활자본에 대해, 조선 고서와의 관계도 함께 주목하며 소개하고 있다.

제2장 고려・조선의 미술과 일본

1. 고려의 불교미술

고려(918~1392)는 통일신라시대에 크게 융성한 불교를 그대로 이어받아 화엄경 사상을 호국이념으로 삼았으며, 중국(원대)의 압박 속에 왕실 주변을 중심으로 아미타 정토신앙이 크게 유행했다. 이 시대에는 부처의 존엄과 품격을 섬세하고 정교한 기법으로 표현한 불화가 등장하며 불교미술의 황금기를 장식하게 된다.
경전도 많이 제작되었는데, 특히 감지금자경(검푸른 색의 종이에 금색 물감으로 글과 그림을 입힌 경전)의 독특한 양식이 눈에 띈다. 절첩장(병풍처럼 펼쳐 볼 수 있도록 책장을 하나로 이어 붙인 뒤 지그재그로 접어서 제작하는 장정 형태)으로 제작된 점, 세로가 31cm정도로 크고 난고(책 따위에서 본문을 둘러싼 칸의 높이)는 20cm안팎으로 여백 부분이 넓은 점, 표지에 그려진 독특한 보상화문(寶相華文)이나 제목 위에 그려 넣은 이자삼점(伊字三點) 표시, 절첩면에 금은니(금, 은 가루를 섞어 만든 물감)로 한 가닥 한 가닥 대단히 정교하게 그린 그림이 특징적이다.

2. 공예품

일본에 고활자가 전해진 16세기, 조선에서는 도자기나 칠기, 금속기와 같은 공예품 제작 기술이 발달했다. 쥐색 태토에 상감이나 화장토 음각 백토장식을 한 분청사기와 백자가 생산되면서 넉넉함과 따스함이 느껴지는 독특한 멋의 도자기가 등장하기 시작한다. 또한 전체를 정교한 당초무늬로 장식한 나전(자개)이나 독특한 금속상감기법이 문구류 등을 수놓았다.
일본의 다인(茶人)들은 분청사기를 미시마(三島)라 불렀는데, 이와 같은 공예품과 그것이 갖는 아름다움은 바다 건너 일본에서도 많은 사랑을 받았다. 오와리 도쿠가와 가문에 대대로 전해 내려오는 많은 작품들을 통해 에도시대 일본인에게 큰 영향을 미친 조선의 미를 엿볼 수 있다.

제3장 조선통신사와 양국의 교류

1. 조선통신사에 대한 영접과 교류

도쿠가와 이에야스가 그간 단절되어 있던 조선왕조와의 관계 정상화에 힘쓰면서 게이초 12년(조선 선조 40년, 1607)에는 조선의 사절단이 일본을 방문하게 된다. 간에이 13년(조선 인조 14년, 1636)의 네 번째 방일을 기점으로 사절단의 정식 명칭은 ‘통신사’로 정해지고 이후 조선통신사는 분카 8년(조선 순조 11년, 1811)에 이르기까지 쇼군이 바뀔 때 축하 행사에 참석하는 등 여러 차례 일본을 방문했다.
국왕의 친서를 받든 조선의 통신사는 정사・부사・종사관(서장관)의 삼사를 중심으로 많은 수행원을 거느리고 에도로 향하며 가는 길목마다 각지의 다이묘(영주)들로부터 극진한 환대를 받았다. 통신사가 묵는 곳에는 각 번의 유학자나 문인들이 몰려들어 한시와 서화 문답을 청했고, 이때 통신사가 남긴 한시와 서화들은 일본 각지로 퍼져나갔다. 유학과 한시라는 공통된 교양을 통해 교류가 깊어졌음을 알 수 있다.

2. 제례 속의 ‘도진(唐人)’과 조선통신사

에도시대에 각지의 신사에서 이루어진 제례에는 종종 ‘도진’이라 불리는 이국적인 차림새의 행렬이 등장하여 일상의 세계에서 벗어난 축제의 장을 연출하곤 했다. 이때 ‘도진’이란 중국인 뿐 아니라 조선인, 서양인까지 아울러 ‘외국인’을 통틀어 가리키는 표현이다.
에도시대 초기만 해도 ‘도진’ 가장 행렬은 서양풍이 주를 이루었지만, 조선통신사가 여러 차례 일본을 방문하여 그 모습이 사람들에게 뚜렷이 각인되면서 ‘도진’에도 통신사의 이미지가 깊숙이 자리잡게 된다. 본 절에서는 각지의 제례에 등장한 도진 행렬 등을 살펴봄으로써 제례의 한 부분으로 자리 잡은 통신사의 모습을 소개한다.


徳川家康

平成27年8月1日(土曜日)から9月13日(日曜日)
<終了しました>

徳川美術館・蓬左文庫開館80周年記念 夏季特別展

没後400年 徳川家康-天下人の遺産-

会場
蓬左文庫 展示室 1・2
徳川家康の遺産は、江戸時代を通じて尾張徳川家第一の什宝として大切に守り伝えられました。刀剣・武具・茶の湯道具・衣類・書籍など、多岐にわたる遺産は戦国武将の中でも群を抜く質・量を誇っています。徳川家康歿後400年を記念し、尾張徳川家に伝来した家康の遺産「駿府御分物」「駿河御譲本」を通して、家康の生涯をたどります。

展示の詳細案内

徳川家康-天下人の遺産-
徳川美術館の収蔵品の骨格となる徳川家康(1542から1616)の遺産は、江戸時代を通じて尾張徳川家第一の宝物として大切に守り伝えられました。刀剣・武具・茶の湯道具・衣類・書籍など、多岐にわたる遺産は戦国武将の中でも群を抜く質と量を誇っています。また、家康が日常的に使用した道具や着用した衣服の他、国宝・重要文化財に指定された名品の数々は、天下人・家康の生きた時代を反映する希有な歴史的・美術的遺産でもあります。本年は、家康が元和二年(1616)4月17日に75歳で没してより数えて四百年の節目を迎えます。この節目を記念し本展覧会は、尾張徳川家に譲られ、今日まで伝来した家康の遺産「駿府御分物【すんぷおわけもの】」「駿河御譲本【するがおゆずりぼん】」の主要な品々を一堂に展示いたします。蓬左文庫展示室においては、戦国武将・家康を天下人とならしめた軌跡を、徳川美術館・蓬左文庫が所蔵する戦国武将ゆかりの品々を通してご紹介いたします。

駿府御分物と駿河御譲本

「駿府御分物御道具帳 十一冊(江戸時代 元和2から4年(1616から18)徳川美術館蔵)」は、尾張家初代義直に分与された家康の遺産台帳である。元和2年に家康が駿府城で没した際、家康が所持した道具類は御三家に分与された。遺産内容は、金銀をはじめ、刀剣・武具・茶の湯道具・能道具・衣服・調度品や美術品、貴重な輸入品であった織物・香木や医薬品など多岐にわたっている。家康が、最高権力者として、いかに膨大な量の財宝・財産を所持していたかを知ることができる。

御書籍目録(元和・寛永) 二冊 江戸時代(十七世紀)写御書籍目録(元和・寛永) 二冊 江戸時代(十七世紀)写

「御書籍目録(元和・寛永)二冊」は、尾張家初代義直の蔵書目録である。左の画像は、この目録に収録された「駿河御譲本請取目録」の最後の部分である。元和3年(1617)正月七日付で義直の家臣と見られる三名による受取確認の署名がある。目録の第一冊は、一筆で記されたものと推定され、巻頭から「駿河御譲本請取目録」の写が収録され、続いて寛永2年(1625)までと推定される収集書が記載されている。第二冊は、その都度書き継がれたものと見られ、寛永3年(1626)以降の収集書の記録である。ただし、最初の五丁分には目録の間に「以上十部常御前」「肥田孫三郎ヨリ請取」「以上十部駿府雑本之長持ヨリ出ル」などの注記が入り、このなかには、家康生前に義直に譲られたと考えられている重要文化財「河内本源氏物語」とみられる『源氏物語』の記載もある。寛永3年以降の記述では、同16年までは「以上廿五部寅年買本」など一年ごとに集計の記録があるが、最後の五丁分六十八件については、年代を確定できる記載はない。基本記載は書名と冊数で、一番から始まる通番ごとに十数件ずつ記載されている。通番は収納されている箱や長櫃、担子に付されたもののようである。後筆で配架場所や購入・献上の別、出納の記録などが記されることがあり、受入簿兼出納簿の役割をはたしていたものと推定される。また、書物を家臣などに与えた際に捺された消印には、義直であれば遺言状に捺された印と同じ印が使用され、義直没後に遺品として蔵書を受け継いだ二代光友の所用印が捺されるなど「藩主の文庫」としての色合いが特に濃かった時期の特徴を物語っている。のちに、「駿河御譲本」と呼ばれることになる「駿府御分物」の「御書籍」については、ここに収録された写が唯一の記録である。


異国への窓

平成27年6月10日(水曜日)から7月26日(日曜日)
<終了しました>

異国への窓-阿蘭陀(オランダ)・波斯(ペルシャ)・印度(インド)-

会場
蓬左文庫 展示室 1
江戸時代、日本は鎖国政策をとっていましたが、オランダや中国との貿易によって、直接国交の無い国々からの物資がもたらされ、大名もこれらを入手しました。尾張徳川家に伝えられた諸外国の品々を中心に紹介します。

殿様が愛した鳥たち

殿様が愛した鳥たち

会場
蓬左文庫 展示室 2
身近な生き物である鳥は、古くから図様化され多くの美術品に取り込まれてきました。鳥は神の使いや幸福を表象する「吉祥」のイメージが仮託され、また、新しい季節の訪れを告げる存在として愛でられました。花鳥画や陶磁器などを展観し、鳥に込められた想いを探ります。

展示の詳細案内

「異国への窓-阿蘭陀(オランダ)・波斯(ペルシャ)・印度(インド)-」
江戸時代、日本は中国・朝鮮・琉球とオランダ以外の国との交際を禁じる鎖国政策をとっていたため、諸外国からの情報や流通が途絶えた状態でした。ただしオランダや中国との貿易によって、直接国交の無い国々からさまざまな物資がもたらされ、大名もこれらを入手しました。今回の展覧会では、大名家・尾張徳川家に伝えられたヨーロッパ・中央アジアなどの国々からもたらされた品々を中心に紹介します。
海外情報を知る
江戸時代には海外の情報は厳重に幕府の管理下におかれ、海外の地理や経済に関する情報も制限されていました。幕閣や一部の大名たちには、政治変動や新たな技術といった諸外国の最新情報が長崎のオランダ商館長を通じてもたらされていましたが、一部の例外を除けば、一般には流布しませんでした。多くの日本人は、輸入された品々のみを通じて異国を感じ取っていたと考えられます。
オランダおよびヨーロッパからの品々
江戸時代初期から幕末までの日本は、「鎖国」制度下にあっても、ヨーロッパの国々のなかで唯一オランダとは外交貿易関係を結んでいました。日蘭貿易は長崎の出島を舞台に行われ、オランダ以外のヨーロッパ諸国の産物も扱われたほか、中継貿易により途中のイスラム諸国や東南アジアの産物までが流入しました。当時「阿蘭陀」と呼ばれたオランダを含むヨーロッパ産の品々を紹介します。
東南アジアや中近東地域からの品々
長崎を窓口としてオランダ商船が日本にもたらした産物の中にはヨーロッパ以外の、東南アジアや中近東のイスラム諸国の産物が含まれていました。オランダ商船が運んだ南方の産物であることから、江戸時代の人々はこれらを一括して「南蛮」と呼びました。

印花人物文阿蘭陀焼手付水指

箱書に「阿蘭陀焼手附水指」とありますが、ドイツ・ラインラント地方の炻器【せっき】と考えられています。ラインラントの炻器は不純物を多く含んだ粘土を用い1200から1300度の高温で焼成した吸水性の低いやきもので、17から19世紀に世界中に輸出されました。ドイツではビールジョッキとして使われていたと考えられますが、尾張徳川家では塗り蓋を付けて細水指として用いられました。

印花人物文阿蘭陀焼手付水指 ドイツ 17世紀

印花人物文阿蘭陀焼手付水指

更紗はインドで作られた木綿の文様染め布です。本作品は江戸時代中期頃までに舶来した「古渡り更紗」です。日本の植物表現とは異なる赤と青の色遣いや花の姿形などの独特の味わいが日本の数寄者や茶人たちによって愛され、茶道具や書画の表具裂などに使用されました。本作品にも細かく切り取られた跡があります。

一番更紗 インド 17世紀

「殿様が愛した鳥たち」
人々にとって身近な生き物であった鳥は、古今東西を問わず宗教・文学・芸術などあらゆる分野において題材として取り上げられ親しまれてきました。人々は空を自由に飛び回ることができる鳥に強くあこがれ、神の使いや幸福を表象する瑞兆の動物として好んで作品に鳥の意匠を用いました。大名たちの間では、武運の神・八幡神の使いである鳩があしらわれた武具や、様々な草花とともに鳥を描く花鳥図が吉祥画として愛好されました。また、季節の移ろいを慈しんできた日本の人々は、春には鶯【うぐいす】、夏には時鳥【ほととぎす】、秋には鶉【うずら】というように、季節の訪れを告げる存在として鳥を歌に詠み、身近な道具に鳥の意匠をあしらうことによって日常生活の中で、季節を豊かに感じてきました。本展覧会では、徳川将軍や尾張徳川家当主などが描いた花鳥画や鳥を象った陶磁器、さらに鳥がデザインされた大名道具を中心に展示し、鳥たちにどのような想いが込められ図様化されてきたのかを探ります。

異国への窓

Window to Foreign Countries
- Netherland, Persia and India -

Hōsa Library: Exhibition Room 1
By virtue of the isolation policy during the Edo period (1603-1867) in Japan,information flow and trade between Japan and foreign countries were strictly restricted by the central warrior government ("Bakufu"), except with China, Korea,Ryukyu (present day Okinawa Prefecture)and Netherland. Nevertheless various products, including products ofcountries with which Japan had no diplomatic relations, were brought to Japan through limited trade channel withNetherland and China, and Daimyōs ("Samurai" Lords)were eager to receive those foreign goods from overseas which were very precious during these days. In this exhibition, we will exhibit pieces from the Western Europe including Netherland as well as from West and Southwest Asia, inherited by the Owari Tokugawa family, to trace the admiration that Daimyōs had for foreign cultures during the Edo period.

殿様が愛した鳥たち
殿様が愛した鳥たち2
殿様が愛した鳥たち3

Birds, beloved by Lords.

Hōsa Library: Exhibition Room 2
Beyond time and places, birds are always around people’s daily life, and often have been taken up in religious stories, literatures as well as in various art objects. Since long time ago, people have regarded birds as the messengers of deities or the symbol of good fortune, adoring their ability to fly freely. Japanese people, who felt sensitively the changes of four seasons throughout their daily life, loved birds as heralds of new season’s arrival. For instance, Daimyōs ("Samurai Lords") liked their armours decorated with designs of pigeons as symbols of Hachiman war god, and drawings of flowers and birds were their favorites as the symbol of good luck.Japanese people composed waka poems incorporating the images of birds, and used designs of birds on the devices for daily use. Birds are often linked with particular seasons, e.g. uguisu (Japanese bush warbler) was linked with spring, uzura (quail) with autumn, and so on. In this way, Japanese people have enjoyed the subtleties of seasons.In this exhibition, we introduce wall-hanging scrolls, craft objects, and other art works with designs of bird motifs, which were collected, or even had drawn by Tokugawa shoguns and the Lords of Owari Tokugawa Family, and were kept with great care in the latter’s treasury for a long time.

尾張の茶道と香道

平成27年4月11日(土曜日)から6月7日(日曜日)
<終了しました>

尾張の茶道と香道

会場
蓬左文庫 展示室 1・2
尾張徳川家において、茶道や香道などの芸道は、御成をはじめとする儀礼の場で重要な役割をなしてきました。尾張徳川家そして尾張における茶道と香道の隆盛を支えた人々とそのゆかりの作品を紹介します。

展示の詳細案内

茶道や香道などの芸道は、尾張徳川家での御成や年中行事等の儀礼の場で重要な役割を果たし、また城下のにぎわいを演出してきました。この地に伝え残された作品や史料からは、芸道を支えた人々の足跡をみることができます。尾張徳川家では、十二代斉荘【なりたか】(1810~45)をはじめとする当主が茶の湯を愛好し、山本道伝【どうでん】や平尾数也【すうや】ら代々の茶頭が茶の湯の諸事をとりしきりました。一方、城下では高田太郎庵【たろうあん】(1683から1763)や河村曲全斎【きょくぜんさい】(1679から1761)などの茶人が千家流の茶の湯を広めました。近代になると、大名家や寺院の売立のなかで茶道具を蒐集した数寄者らによって、茶の湯の文化が引継がれました。本展第一部「尾張の茶道」では、尾張の茶の湯を支えた人々ゆかりの作品を展観いたします。また、幕末の動乱の中、京から名古屋へと移った志野流蜂谷家は、尾張徳川家の家臣や町人に多くの門人を抱え、尾張に香道を広めました。徳川美術館には蜂谷家の宗匠が鑑定し、仮銘をつけた香木が多数伝わっています。第二部の「尾張の香道」では、志野流11世蜂谷勝次郎豊光が鑑定し尾張徳川家に献上した「蘭奢待【らんじゃたい】」をはじめとする名香や、尾張徳川家伝来の香道具、蜂谷家所蔵の香道具を公開いたします。

展示の資料リスト:PDFファイル(707KB)

企画展「尾張の茶道と香道」において出陳しておりました、No.54「常滑不識水指 銘 ばけもの」は、作品評価に関する再調査の必要が生じたため、展示を取り止めることとなりました。ご了承ください。

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