真美人 猫 楊洲周延画 徳川美術館蔵
2020年2月8日(土曜日)から4月5日(日曜日)
<終了しました>
企画展
いつだってKawaii大好き
- ■会場
- 蓬左文庫展示室
- 雛まつりにちなみ、着せ替え人形や市松人形、雛道具や動物・物語など、女子の心を魅了するかわいい品々を紹介します。
展示の詳細案内
平安貴族の女子の間で人形や小さな道具でままごとをする「ひいな遊び」に代表されるように、平安の昔から今にいたるまで、小さく愛らしいものは、女子の心を惹きつける必須条件の一つです。男子に比べ、女子の身の回りの道具は、かわいらしく、時に華やかに作られ、その成長と幸せを願って行われる節目の行事や雛祭りにも、女子が好む愛らしい品々が選ばれました。
本展では、雛祭りにちなみ、雛人形をはじめ、着せ替え人形や抱き人形、手芸や物語など、女子の心を魅了する品々を紹介します。
染付山水文一閑人火入(そめつけさんすいもんいっかんじんひいれ)
器の口縁(こうえん)にしがみつくような格好をした唐子(からこ)が貼り付けられています。暇を持て余した人が井戸をのぞき込んでいるような姿から、こうした唐子の意匠は「一閑人」と呼ばれ、茶事の際に使う火入や蓋置(ふたおき)の装飾として好まれました。器に対して、唐子がほどよい大きさで作られていて、思わず微笑んでしまうようなかわいらしさがあります。
明時代 17世紀
四季草花文金銀玉石螺鈿蒔絵小沈箱(しきそうかもんきんぎんぎょくせきらでんまきえこぢんばこ)
高さ5.8センチの沈箱の中に、さらに小さな重香合(じゅうこうごう)と炷空入(たきがらいれ)を入れ子に納めるように作られています。炷空入は、やきものの壺をかたどった形です。大粒の金粉を散らしたなかに、金銀や螺鈿、玉石を用いて、四季の草花を蒔絵であらわしています。同趣の小箱がフランス王妃マリー・アントワネットのコレクションに含まれています。
江戸時代 17から18世紀
象牙小犬根付(ぞうげこいぬねつけ)
象牙は耐久性があり、きめが細かいため緻密な細工に適し、縞目の変化や半透明の乳白の色調が美しいことから、古くより牙彫工芸品の材料として洋の東西を問わず珍重されてきました。日本で象牙細工といえば、根付が有名で、小さいながら技巧を凝らした品も多く、当時の人々の遊び心がうかがえます。
江戸時代 18から19世紀
市松人形 男児(いちまつにんぎょう だんじ)
市松人形は、江戸時代後期の歌舞伎役者・佐野川市松(さのかわいちまつ)に似せた人形が売りに出されたのが始まりとされます。手元に置き、鬘(かつら)や衣裳を替え、手足も自由に動かして楽しむことができる人形として人気を博しました。人形用の衣裳を作ることが、裁縫の練習にもなることから、子ども向けというよりは大人が楽しみ、昭和初期には嫁入り道具ともなりました。
中村京子氏寄贈 大正時代 20世紀
人形衣裳(にんぎょういしょう)
豆市松は手足が動かせるように作られ、着せ替え人形として遊ぶことができます。着せ替え人形は、遊んでいるうちに失われることが多いため、未使用のまま、一揃いで残っているのは貴重です。人形の胴部には「友壽」と昭和初期に活躍した人形師・柳澤友壽(やなぎさわゆうじゅ)の落款があります。
吉田家寄贈 大正から昭和 20世紀
豆ビスク(まめびすく)
ビスク・ドールは、フランス語で素焼きを意味するビスキュイを語源とし、頭部や手足が磁器でできていることから名付けられ、19世紀のヨーロッパで、上流階級の女性たちの間で流行しました。小さなビスク・ドールはミニョネットともいい、日本では豆ビスクとも呼ばれます。
吉田家寄贈 フランス 20世紀
真美人 楊洲周延画 36枚揃の内(しんびじん ようしゅうちかのぶが)
「真美人」の「真」には、新しいという意味の「新」が掛けてあり、明治という新時代を生きる、年代もさまざまな女性たちの姿が、当時最新のファッションや小物とともに描かれています。作者の楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)は、明治時代の上流階級の人々を描いた作や、江戸時代の風俗を懐古的に描いた作など幅広い画域を誇る浮世絵師です。なかでも美人画に優れ、少女のようなたおやかな面貌表現を得意としました。
明治30年から31年 (1897から98)
黒地子犬に雪持万年青文筥迫(くろじこいぬにゆきもちおもともんはこせこ)
万年青(おもと)は一年中緑の葉をつけ、赤い実のなることから、長寿を祝う正月の贈答品として珍重されました。安産や多産の象徴である犬とともに組み合わされることで、子孫繁栄や長寿を願った吉祥図案となっています。金刺繡がいかにも豪華ですが、正面に目線を向けた子犬の愛らしさが際立っています。
江戸から明治時代 19世紀
新板猫のたわむれ 小林幾英画(しんばんねこのたわむれ こばやしいくひでが)
猫を擬人化して、角兵衛(かくべえ)獅子や曲芸などの大道芸を披露する猫たちと、見物する親子の猫たちがいきいきと描かれています。余白には、口上や鳴り物の音、猫たちの台詞(せりふ)も書き込まれており、にぎやかな雑踏の雰囲気が伝わってきます。
作者の小林幾英(いくひで)(生殁年未詳)は明治時代に活躍した浮世絵師で、おもちゃ絵のほか、新時代の到来を感じさせる東京の名勝や洋装の人物を題材とした開化絵を手がけたことでも知られています。
明治時代 19世紀
雲龍文螺鈿琵琶 徳川美術館蔵
【前期】2019年11月16日(土曜日)から12月15日(日曜日)
【後期】2020年1月4日(土曜日)から1月31日(金曜日)
<終了しました>
企画展
奏でる-楽器と調べ-
- ■会場
- 蓬左文庫展示室
- 日本の古典音楽には、さまざまな姿や音色をもつ楽器が用いられてきました。尾張徳川家に伝わる楽器や音楽にまつわる作品から、日本の古典音楽の流れを紹介します。
展示の詳細案内
日本の古典音楽には、宮廷の式楽である雅楽や武家の式楽である能楽、平家琵琶などがあり、それらの音楽の種類ごとにさまざまな楽器が用いられました。笙や琵琶、箏などの楽器のなかには、インド・ペルシアに起源を持つ楽器や、笛や太鼓のように形を変えて広く用いられた楽器があり、歴史とともに発展し種類を増やしてきました。江戸時代の大名の間では能楽が必須の教養であったため、尾張徳川家でも能楽に用いられる楽器を中心に雅楽の楽器や女性の教養であった箏・三味線、琉球王から送られた琉球楽器一式が伝えられました。尾張徳川家伝来の楽器を一堂に紹介し、日本の音楽の流れを紹介します。
太鼓(たいこ)
中国や朝鮮から伝えられた雅楽に用いられる打楽器です。雅楽の合奏「管絃」は、管楽器(笙・篳篥・龍笛)、絃楽器(琵琶・箏)と打楽器(鞨鼓・太鼓・鉦鼓)で編成されています。太鼓は、円形の枠(わく)に釣り下げるところから釣太鼓(つりだいこ)(吊太鼓)とも呼ばれます。奏者は革面に向かって座り、二本の撥(ばち)で片面のみを打ちます。
江戸時代 18-19世紀
雲龍文螺鈿琵琶(うんりゅうもんらでんびわ)
『平家物語』の語り「平曲(へいきょく)」の伴奏に用いられる琵琶です。18世紀頃に琉球で用いられた琵琶は、宋時代以降進化を遂げた中国本土の琵琶と同形態であったと考えられますが、この琵琶は頸部が細い日本の伝統的な姿であり、黒漆地に螺鈿で雲龍文を施した装飾のみが、琉球で行われたと考えられます。
琉球 16-17世紀
能管 瓦落 藤田家伝来(のうかん かわらおとし)
能管は竹製の横笛で、吹口・指孔あわせて8つの孔があり、竹管の内部には朱漆が塗られ、外側は樺巻きにし漆で塗り固められています。外見は雅楽の龍笛(りゅうてき)と似ていますが、龍笛と異なり音階が均等に出ないのが特徴です。本管は尾張家お抱えの能楽笛方・藤田家に伝えられた一管です。
藤田家寄贈 室町時代 16世紀 (展示期間:2019年11月16日から12月15日)
苅田蒔絵小鼓胴(かりたまきえこつづみどう)
小鼓は能楽の囃子(はやし)に使用する楽器のひとつで、木製の胴に馬革製の革二枚をあて、麻緒(あさお)(調緒(しらべお))で締めて用います。
慶長16年(1611)3月、二条城での徳川家康と豊臣秀頼の会見後、家康は答礼の使者として9男義直(尾張家初代、当時12歳)と10男頼宣(紀伊家初代、当時10歳)を秀頼の居城である大坂城に遣わしました。秀頼は義直に鼓を、頼宣に笛を贈りました。本作は、その時に秀頼から義直へ贈られた小鼓です。
豊臣秀頼・徳川義直(尾張家初代) 所用 室町時代 16世紀
七絃琴 銘 老龍吟(しちげんきん めい ろうりゅうぎん)
七絃琴は奈良時代に日本に伝えられました。平安時代後期までは用いられていましたが、鎌倉時代以降奏法や伝承が途絶えました。江戸時代前期に再び中国からもたらされ、文人の間で流行しました。中国では「琴棋書画(きんきしょが)」のひとつとして、知識人の教養とされました。箏のように柱(じ)を用いず、左手の指で絃を押さえて音の高さを調節し、右手の指で弾きました。
南宋時代 13世紀
琉球楽器 銅鑼・小銅鑼・鼓(りゅうきゅうがっき)
琉球王朝の宮廷音楽である御座楽(うざがく)は、中国南部清楽(しんがく)の影響を色濃く受けています。徳川将軍や琉球王の代替わりの際には、江戸へ使節が派遣され、御座楽が演奏されました。演奏後、将軍や御三家には楽器も献上されました。尾張家伝来のこの琉球楽器は、寛政8年(1796)12月21日、薩摩島津家を介して尾張家へ贈られ、同10年(1798)尾張家の戸山屋敷で島津家の家臣が演奏した記録があります。
写真は、銅鑼(トンロウ)・小銅鑼(シャウトンロウ)・鼓(クウ)。
琉球 18世紀
青磁浮牡丹花生 徳川美術館蔵
2019年9月15日(日曜日)から11月10日(日曜日)
<終了しました>
秋季特別展
殿さまとやきもの―尾張徳川家の名品-
- ■会場
- 蓬左文庫展示室 徳川美術館本館展示室
- 将軍家に次ぐ格式を誇った尾張徳川家当主の公私さまざまな場面を飾ってきた陶磁器から、選りすぐりの作品を紹介します。
展示の詳細案内
徳川美術館に今日収蔵されている陶磁器はもともと、近世大名家で御三家の一であった尾張徳川家に、江戸時代・およそ250年もの間、脈々と受け継がれてきた大名道具です。その基礎となっている初代・徳川義直が父・徳川家康より譲られた茶の湯道具には、室町将軍家伝来の品(「東山御物」)や、織田信長・豊臣秀吉ら天下人の所持した品、また武野紹鷗や千利休ら茶人の所持した品など、当時から「尾張様所持」と世上に知れ渡っていた数々の「名物」道具が含まれていました。それらの道具に加えて、多種多様な会席具や文房具、また尾張藩でとりわけ盛んに焼成された御庭焼などが加わり、近代以降もほとんど散逸させることなく、今日、国内有数と目される大名家伝来の一大陶磁器コレクションを形成しています。このコレクションには、中国・南宋時代に皇帝専用の窯(官窯)で焼成した青磁の水指や、中国・南方の窯で焼成された鉄釉陶器(茶壺や茶入)、また粗製白磁(「鳥の子」)の皿、建窯の鉄釉茶碗、朝鮮半島で高麗王朝時代に焼成された粉青沙器(青磁象嵌)の茶碗、東南アジアの陶製壺(水指や建水)、そして日本・瀬戸窯の鉄釉陶器(茶壺、茶入、茶碗)、美濃窯の白釉鉄絵(志野)茶碗、京都・楽窯の茶碗や、薩摩焼の水指、また尾張藩の御庭焼である楽々園焼・萩焼・御深井焼の陶器類などが含まれています。
本展覧会では、将軍家に次ぐ格付を与えられた尾張藩主の公的・私的な生活の様々な場面を彩ってきた陶磁器から、これまでほとんど紹介することのなかった作品も含めながら、名品・優品を選りすぐって紹介します。
古瀬戸肩衝茶入 銘 筒井(こせとかたつきちゃいれ めい つつい) 大名物 瀬戸窯
肩が張る「肩衝」形の茶入です。本作品は尾張家の蔵帳には「御譲(おゆずり)」とあり、徳川家康、または尾張家初代義直から尾張家に受け継がれた道具と分かります。尾張家では最上級の公式な道具である「上御数寄御道具」に仕分けられていました。
桃山時代 16世紀後期
肩衝茶入 銘 本阿弥(かたつきちゃいれ めい ほんあみ) 名物
大形の肩衝(かたつき)茶入で、添えられた伝来書によれば、もともと尾張藩附家老・竹腰正信(竹腰家初代、1591から1649)が京都・本阿弥家から購入し所持していました。尾張家二代光友が本茶入を気に入り、写しの茶入を二つ作って竹腰正晴(竹腰家二代)へ下賜(かし)したため、「代わりに本茶入を献上するように」という内意を汲んで、竹腰家から光友へ献上されました。ところが江戸時代中期、蔵の中で本茶入は他の茶入と紛れてしまったため、竹腰正武(竹腰家五代、1709から59)に命じて同家に下賜された写しの茶入二つを持って来させ、本茶入を同定したといいます。藩の公式な道具のうちの御茶器として仕分けられていました。
桃山時代 16世紀後期
染付唐草文茶碗 銘 荒木(そめつけからくさもんちゃわん めい あらき) 大名物
江西省景徳鎮窯製の染付製品を模倣して製作された明時代の粗製の陶器碗です。茶会記に記述される染付茶碗の中で、記述と伝世品とで合致する唯一の茶碗としても重要です。尾張家では家康からの「駿府御分物」として大切にされ、藩の公式な道具の最上級である「上御数寄御道具」とされました。
中国・明時代 16世紀後期
油滴天目(「曜変天目」)(ゆてきてんもく(「ようへんてんもく」)) 大名物
室町時代では「茶碗」は総釉掛けの碗(青磁碗)、「天目」は土の碗(=土見せのある碗)を指しました。鉄釉の中の金属成分が焼成中に釉表面に斑文として浮かびあがる効果を「油滴(ゆてき)」とよんでいます。その中でもさらに斑文が虹色に輝く場合は「曜変(ようへん)」とよびます。本天目はやや白くみえる斑文が浮かんでおり、「曜変」とはいえませんが、尾張家では「曜変」とよんできました。徳川家康からの遺産目録である「駿府御分物御道具帳」では本茶碗は「やうへん(曜変)天目」と記載しています。尾張家では家康からの「駿府御分物」として大切にされ、藩の公式な道具の最上級である「上御数寄御道具」とされました。
中国・金時代 12から13世紀後期
青磁獅子耳付花生(せいじししみみつきはないけ)
肩が丸みを帯びて張り、胴中央部から裾へ窄む「梅瓶(めいぴん)形」の花生です。肩部分と獅子面形の耳は無釉とし、中国古代の青銅器風の文様をあらわしています。青磁釉は厚く、貫入(釉上のひび)が全面に入っています。本花生は尾張家の蔵帳・箱書では「高麗琯瑶(かんよう)」とよばれていますが、中国・景徳鎮窯製の青磁です。藩の公式な道具の最上級である「上御数寄御道具」とされています。
中国・明時代 16世紀
青磁香炉 銘 千鳥(せいじこうろ めい ちどり) 大名物
尾張家では家康からの御譲りとして大切にされ、藩の公式な道具の最上級である「上御数寄御道具」とされました。また、蔵帳によれば、尾張家八代宗勝の治世に江戸へ移され、当主の身近に置く御側御道具にされましたが、十四代慶勝(1824から83)の治世に再び名古屋へ戻されました。
中国・南宋-元時代 13世紀末期から14世紀初期
青磁経筒形水指(せいじきょうづつがたみずさし)
中国古代の玉器「琮(そう)」を象った水指。円筒形の中心部に、型造りの三角柱を四方に付けて四角形となっています。青磁釉は少なくとも二度掛けられたようで、厚く掛けられた部分の貫入(釉のひび)は大きく、薄く掛けられた部分の貫入は細かく入っています。尾張家初代義直の道具であり、尾張家では藩の公式な道具の最上級である「上御数寄御道具」とされました。
中国・南宋時代 12から13世紀 東京国立博物館蔵 重要文化財
塩釉藍彩印花貼付人物文手付水指(「阿蘭陀焼手附水指」)(えんゆうらんさいいんかはりつけじんぶつもんてつきみずさし(「おらんだやきてつきみずさし」))
胴の側面に、型で別造りした人物文を貼り付け、ロータス文をスタンプで捺し、コバルト青料を塗ったドイツ製のフンペン(飲酒器)を、水指に見立てています。本水指のような精緻な貼付文を用いる「灰色藍彩炻器」はドイツからオランダやイングランドなどへ輸出された高級製品で、オランダ東インド会社では上等な贈り物として日本へ持ち込んでいたと考えられます。 尾張家では藩の公式な道具である「御茶器御道具」とされていました。また、蔵帳によれば、十二代斉荘(なりたか)の治世に江戸へ移されて、斉荘の身近に置く「御側御道具」にされ、斉荘の歿後に再び名古屋へ戻されています。
ドイツ 16世紀末期から17世紀前期
唐物茶壺 銘 松花(からものちゃつぼ めい しょうか) 大名物
天下の三茶壺の一つとして名高く、織田信長(1534から82)が安土城完成の祝いに贈られた本茶壺に大変喜んだといわれる挿話はよく知られてます。本茶壺は二種類の化粧土の上に灰釉を掛けた、淡く透明度の高い釉調が特徴です。この釉調の壺を古くは「黄清香(きせいこう)」とよんでおり、本茶壺はその唯一の伝世作例です。尾張家では家康からの「駿府御分物」として大切にされ、藩の公式な道具の最上級である「上御数寄御道具」とされました。
中国・南宋-元時代 13から14世紀 重要文化財
長篠長久手合戦図屛風(部分) 徳川美術館蔵
2019年7月27日(土曜日)から9月8日(日曜日)
<終了しました>
夏季特別展
合戦図 ―もののふたちの勇姿を描く―
- ■会場
- 蓬左文庫展示室 徳川美術館本館展示室
- 中世合戦絵巻から近世の合戦図屏風まで、歴史の中で幾度となく繰り返された戦を描く合戦図の系譜をたどります。
※「高精細復元「大坂冬の陣図屛風」特別公開」
展示の詳細案内
古来、幾度の戦を経て、変革や安定を繰りかえしながら日本の歴史は紡がれてきました。これらの戦の様子は、様々な目的で中世より描かれ記録されています。本展覧会では中世絵巻から戦国合戦図までを展観し、合戦図の多様性を示しながら、合戦図の果たした役割や意義を再考します。
合戦図は単なる記録画ではなく、武家の教育や自家の顕彰などの目的で描かれたと考えられています。一方で、源平合戦などは、物語化されて民衆まで広く享受されてきました。合戦図の形態も、近世になると絵巻だけではなく、屏風や掛軸、画帖や冊子など様々な形で親しまれました。このような合戦図の展開の中で、戦国という大乱の時代を描いた合戦図が、どのように成立し、描かれたのかにスポットを当てます。
祖先や自家の武勲を誇示するために作られた戦国合戦図、合戦中のエピソードに焦点を当てるかのように物語化した戦国合戦図、江戸後期に再び考証され蘇った戦国合戦図など、その多様性は中世の合戦図の延長上にあります。また、戦国合戦図の中には、一部の図様を変えながら次々と写されている作品があり、合戦図の需要の大きさを物語っています。中世合戦図から戦国合戦図へと、脈々と描き継がれた合戦図の系譜を明らかにします。
平治物語絵巻 六波羅行幸巻(へいじものがたりえまき ろくはらぎょうこうかん)
この「平治物語絵巻」は、「三条殿夜討巻」(米国・ボストン美術館蔵)、「信西巻」(東京・静嘉堂文庫美術館蔵)などとともに作られた大部の物語絵巻の一つで、熊野詣から引き返した清盛が後白河上皇、二条天皇と連絡を取り、上皇を仁和寺に、天皇を清盛の六波羅邸に脱出させた場面を描いています。本巻には、武装燦然と輝く出で立ちの見事な武士たちが天皇を迎えるさまが描かれて、合戦図は戦の凄惨な場面だけではなく、理想的な武士像が描き留められた絵画でもあります。
鎌倉時代 13世紀
松江松平家伝来 東京国立博物館蔵 国宝
展示期間:7月27日から8月18日
後三年合戦絵巻 三巻のうち巻中(ごさんねんかっせんえまき)
後三年合戦は奥羽の豪族清原氏内部の相続争いが発端で、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を滅ぼした戦いです。
縦45.7センチという大きさは南北朝以降に成立した絵巻では異例の大きさです。躍動的な人物表現で残虐な場面も詳細に描かれる本巻は、背景がほとんど描かれておらず、人物が強調されています。人物図様を主とした画面は、戦の張りつめた空気を見事に表しており、合戦描写では白眉の作例といえます。
詞 持明院保脩筆 絵 飛驒守惟久筆 南北朝時代 14世紀
池田家伝来 東京国立博物館蔵(巻き替えがあります。) 重要文化財
芦引絵 五巻のうち巻四(あしびきえ)
中世に流行した稚児物語の一つです。比叡山東塔の侍従の君である僧・玄怡(げんい)と東大寺東南院の稚児の若君との恋を主題とし、二人の別離と邂逅を描いています。若君の存在を疎ましく思っていた継母は、娘婿の和泉守来鑒(らいかん)という僧に若君と侍従の君への夜襲を持ちかけ、戦いを引き起こします。巻四には、来鑒の夜襲が描かれています。負傷者がいたるところに描かれ、凄惨な戦の場が展開し、屋敷の中では侍従の君と来鑒の戦いが異時同図法(いじどうずほう)で描かれています。
室町時代 15世紀
公益財団法人阪急文化財団 逸翁美術館蔵 重要文化財
展示期間:8月20日から9月8日
一の谷・屋島・壇の浦合戦図屏風 八曲一双(いちのたに・やしま・だんのうらかっせんずびょうぶ)
右隻に一の谷合戦、左隻に屋島合戦と、壇の浦合戦が描かれています。本屛風の軍馬入り乱れあう群衆の多さと、その多様な姿態、そして緻密な描写は驚嘆に値します。最大の特徴は打ち捨てられた亡骸など凄惨な場面が多く描かれている点です。また、多くの源平合戦図屛風において壇の浦合戦が描かれていないのに対し、本屛風では一の谷から壇の浦合戦までのエピソードを網羅的に描き込んでおり、物語を逐一絵画化するような強い執着心が窺えます。
江戸時代 17世紀
個人蔵(前期後期で隻替え)
長篠合戦図屛風 六曲一隻(ながしのながくてかっせんずびょうぶ)
本屛風は現存最古の長篠合戦図屛風ですが、武田軍が描かれていないことから、もとは一双屛風で、失われた右隻に武田軍の軍勢が展開していたと考えられます。重要文化財「関ケ原合戦図屛風」(大阪歴史博物館蔵)、「戦国合戦図屛風」(個人蔵)とともに、戦国合戦図のなかでも17世紀前期の初期合戦図の作例として注目されており、いずれも詳細な戦のエピソードを描かず、登場人物を史実の人物に特定できない製作態度で一致しています。
江戸時代 17世紀
名古屋市博物館蔵
展示期間:8月20日から9月8日
長篠長久手合戦図屛風 六曲一双(ながしのながくてかっせんずびょうぶ)
長篠合戦と長久手合戦を一双に組み合わせた屛風は、本屛風の他に、犬山城白帝文庫、大阪城天守閣などに現存しています。このうち尾張徳川家の付家老(つけがろう)成瀬家に伝来した白帝文庫本を現存最古の作とし、本屛風をはじめとする諸本は成瀬家伝来本の図様をアレンジして作り出されたと考えられています。
江戸時代 18世紀から19世紀
尾張徳川家伝来 徳川美術館蔵
展示期間:7月27日から8月18日
大坂冬の陣図屛風 デジタル想定復元 六曲一双(おおさかふゆのじんずびょうぶ でじたるそうていふくげん)
東京国立博物館が所蔵する「大坂冬の陣図屏風 模本」を科学的な調査に基づき、本来の姿を想定してデジタルで復元しました。
令和元年(2019年) 凸版印刷株式会社蔵
展示期間:7月27日から8月25日
白地紋尽更紗(近衛信尹筆 和歌短冊 表具) 徳川美術館蔵
2019年6月8日(土曜日)から7月21日(日曜日)
<終了しました>
企画展
裂〈きれ〉の美
- ■会場
- 蓬左文庫展示室
- 尾張徳川家に伝わった豊富な裂地コレクションから、茶人たちに重宝されてきた金襴や緞子・更紗といった美しい裂地を紹介します。
展示の詳細案内
金襴や緞子、更紗といった海外から渡った華やかな裂地は、書画の表装や茶道具の包みに用いられてきました。特に茶人たちには鑑賞の対象としても重宝された「名物裂」は、手鑑などに貼られ、大切に保存され伝わりました。このため、裂地は繊維という脆弱な性質ながら、現在も古今に流通していた様々な裂地を見ることができます。
尾張徳川家では、手鑑に貼り込まれた状態のみならず反物や端切れの状態で、「名物裂」をはじめとする数多くの裂地を守り伝えてきました。また、掛物や巻物の表具をはじめ、茶道具の仕覆や包袋、能装束に用いられた裂地からは、往時の尾張徳川家の美意識を垣間見ることができます。
本展では、尾張徳川家の裂地コレクションから、様々な裂地を紹介します。
漢作瓢箪茶入 銘 玉津島(かんさくひょうたんちゃいれ めい たまつしま)
堆朱楼閣人物図小菱実形盆(ついしゅろうかくじんぶつず こひしのみなりぼん)
瓢箪とは、その名の通り瓢(ひさご)形の茶入を指します。本品の銘は『続千載(しょくせんざい)和歌集』の「和歌の浦に 又もひろはゝ 玉津島 おなし光の 数にもらすな」から小堀遠州が命銘したと伝えられています。名品の数からもらしてはならない茶入であるとの意です。
本品には小堀遠州・片桐石州の箱書があり、本阿弥光的・茶屋長以・茶屋宗古・本多忠憲を経て、徳川斉荘(尾張家12代)の所用となりました。
本品には、珠光緞子仕覆・白地間道織留仕覆・柿色地間道織留仕覆・萌黄地鳥文金襴仕覆の四つの仕覆(しふく)が添えられています。茶道具の名器には、所有者が代わる度に、仕覆や牙蓋(げぶた)が誂えられることも少なくありません。本品のように、来歴が多い作品には、名物裂の袋物(包袋)が多く含まれています。
【茶入:中国・南宋-元時代 13-14世紀】
【仕覆:中国・明時代 15-17世紀】
珠光緞子仕覆・柿色地間道織留仕覆 6月8日から6月30日
白地間道織留仕覆・萌黄地鳥文金襴仕覆 7月2日から7月21日
【盆:中国・元 14世紀】
裂手鑑(きれてかがみ) 五帖の内 地
名物裂を含む舶来織物の見本台帳です。甲乙の二部から成り、甲の部は天・地・人の三冊に、乙の部は上下二冊に分かれ、それぞれに金襴(きんらん)・緞子(どんす)・蒙流(もうる)など213種の裂地がおさめられています。乙は甲よりも小さめの同じ裂を甲と同じ順序で貼り込んでいます。
甲の各帖の表紙の題箋(だいせん)に「古織紋鑑」と記されています。裂はそれぞれ上品・中品・下品の等級が記されています。
【江戸時代 19世紀 展示期間:全期間、会期中に場面替あり】
米法山水図 弡孚筆(べいほうさんすいず くつふひつ)
金襴の裂ばかりで表装された一幅です。中廻には白地二重蔓牡丹唐草文金地金襴(中国・明時代 15から16世紀)が、上下には茶地牡丹宝尽文金襴(中国・明時代 16世紀)が用いられ、尾張徳川家もしくはその前の所有者により、大変尊重されていたことがうかがえます。中国絵画は、日本では古くから「唐絵(からえ)」と呼ばれ、珍重されていました。この表具裂からも、唐絵尊重の風潮をうかがうことができます。
本図は筆穂の腹を横にした潤墨の点で山の樹木を表す米法で描かれています。米法は中国・北宋時代の米芾(べいふつ 1051から1107)の子、米友仁(べいゆうじん 1086から1165)が創始したと言われます。本図には「弡孚士信」の印が捺されていますが、「弡孚(くつふ)」なる画家の経歴は詳らかではありません。
【中国・明時代 15-16世紀 展示期間:7月2日から7月21日】
焦茶地雲鶴宝尽文錦刀袋・紺地鶴亀松竹橘宝尽文錦刀袋(こげちゃじうんかくたからづくしもんにしきかたなぶくろ・こんじつるかめしょうちくたちばなたからづくしもんにしきかたなぶくろ)
「脇指 名物 物吉貞宗」附属
本品は家康の愛刀で、この脇指を帯刀して出陣すると必ず勝利したことから「物吉(ものよし)」と呼ばれた、「脇指 名物 物吉貞宗」およびその脇指拵に附属する刀袋です。家康の歿後、側室で尾張家初代義直(よしなお)の母・相応院(そうおういん・お亀の方)は本刀が義直に譲られるように力を尽くし、駿府御分物とは異なる手順で尾張家へともたらされました。
「脇指 名物 物吉貞宗」には、ほかに「菱繋唐花文錦刀袋」「黄地菱繋花文繋繻珍刀袋」も附属しており、尾張徳川家でいかに大事にされてきたかが、刀袋の多さからもうかがえます。
【江戸時代 17-18世紀 展示期間:6月8日から6月30日】
鶏頭文銀蒙流(けいとうもんぎんもうる)
本品はもとサッシュと呼ぶ腰に巻き付ける帯です。織留(おりどめ)に房の付いた状態で、織りの全体が残る貴重な優品です。全体に花唐草の細かい段文様を織りあらわし、両端に鶏頭とおぼしき草花文を配しています。隙間をつくりながら絹糸に銀の箔糸巻き付けた撚金糸(よりきんし)を用いて織られています。
【ペルシャ 17世紀 展示期間:全期間】
白地花唐草文更紗(しろじはなからくさもんさらさ)
赤と青の色使いや花の形などに日本の植物表現とは異なる独特の味わいがあります。本作品は江戸時代中期頃までに舶載された「古渡り更紗」で、上質のインド更紗です。日本では衣裳や茶道具などに使用され、本作品にも細かく切り取られた跡があります。
尾張徳川家では「一番更紗」という名が付けられ、特に上等な更紗として考えられていたようです。
【インド 17世紀 展示期間:7月2日から7月21日】
重文 天皇摂関御影(部分) 徳川美術館蔵
2019年4月14日(日曜日)から6月2日(日曜日)
<終了しました>
ご即位記念 企画展
雅〈みやび〉を伝える-宮廷と文化-
- ■会場
- 蓬左文庫展示室
- 5月に行われるご即位を記念し、宮廷で育まれてきた文化の諸相を、書跡や絵画作品・調度品・染織品などを通して紹介します。
展示の詳細案内
天皇摂関御影(てんのうせっかんみえい) 二巻
上巻に鳥羽院(1103から56)から亀山院(1249から1305)までの天皇14人、下巻には後宇多(1267から1324)・伏見(1265から1317)・後伏見(1288から1336)の三天皇と9人の法体(法親王(ほっしんのう))像、藤原忠通(ただみち・1097から1164)をはじめ九条(近衛)兼経(かねつね・1210から59)に至る摂政・関白や大臣を歴任した貴族11人の画像を収められています。もとは一巻の巻物でしたが、近年保存のため二巻に改装されました。
鎌倉時代 重要文化財
東福門院入内図屏風(とうふくもんいんじゅだいずびょうぶ) 六曲一双
徳川二代将軍徳川秀忠の娘和子(まさこ)(後の東福門院 1607から78)が後水尾天皇(1596から1680)のもとへ女御(にょうご)として入内する華やかな行列を描いた屏風です。元和6年(1620)6月18日、二条城から内裏へ向けて進む行列の、向かって左隻の中央に描かれている二頭だての牛車が和子の牛車です。内裏は朝廷を、二条城は徳川幕府を象徴し、その間の行列が両者を結ぶ「架け橋」のように描かれており、文字通り「公武合体」を象徴的に表しています。
江戸時代
太刀(菊紋) 菊一文字(たち(きくもん)きくいちもんじ) 徳川忠長
佩表(はきおもて)鎺下(はばきした)に菊紋を刻んだ太刀は、後鳥羽上皇の御作と伝えられます。上皇は刀剣を愛し、山城のほか備前・備中など諸国より名工を召し寄せて御番鍛冶(ごばんかじ)とし、自らも鍛冶を相手に、御所内で刀剣を鍛えたと伝えられています。本品は一見して備前国一文字派の作風を示すため、菊御作(きくごさく)あるいは菊一文字(きくいちもんじ)とも呼ばれています。本品は寛永2年(1625)に二代将軍秀忠(ひでただ)三男の忠長(ただなが)から尾張家初代義直(よしなお)が譲り受けました。その後、尾張家五代五郎太(ごろうた・1711から13)の時代に父・吉通(よしみち) の建中寺(けんちゅうじ)廟に奉納され、明治時代に尾張家へ戻されました。
鎌倉時代 重要文化財
盆石 銘 夢の浮橋(ぼんせき めい ゆめのうきはし) 伝後醍醐天皇・伝徳川家康所用 名物
盆石中の王者として古来有名な品です。後醍醐(ごだいご)天皇が笠置・吉野へ遷幸(せんこう)した際にも、常にこれを懐中していたと伝えられ、石底に朱漆で書かれた「夢の浮橋」の銘は、後醍醐天皇筆と極められています。銘の「夢の浮橋」は、『源氏物語』の最終巻である「夢浮橋」にちなんでいるとみられます。石は中国江蘇省(こうそしょう)江寧山(こうねいざん)の霊石と伝えられています。
南北朝時代
重之集(しげゆきしゅう) 伝藤原行成筆
三十六歌仙の一人である源重之(みなもとのしげゆき・生歿年未詳)の家集です。重之が帯刀先生(たちはきのせんじょう・武器を帯びて東宮(とうぐう)の身辺および御所の警護にあたる者の長(おさ))の任にあった時、東宮であった村上天皇の第二皇子憲平(のりひら)親王(後の冷泉天皇)に新たに詠んで献じた春・夏・秋・冬各二十首、恋・恨各十首、および「かずのほかにたてまつれる」二首をあわせた百二首の歌が収められています。
平安時代 重要文化財
広沢切貼込屏風(ひろさわぎれはりこみびょうぶ) 伏見天皇宸筆 六曲一双
「広沢切」は、伏見天皇(1265から1317)が平生の御製を自ら書写した歌集の草稿で、本品には、部立ではありませんが春・夏・秋・冬・恋・雑の歌120首が貼込まれています。「広沢切」のまとまった遺巻としては、現在およそ22巻が知られていますが、部立別に一巻に書写されており、本品は諸巻から抄出、編集されたと考えられます。本品は貼り込まれた歌数が多く、鎌倉時代の和様書法を示す代表遺品です。
鎌倉時代 重要文化財
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