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これまでの展示案内


朱漆花鳥七宝繋文密陀絵沈香御供飯
朝鮮人物旗杖轎輿之図

平成24年2月15日(水曜日)から4月8日(日曜日)
<終了しました>

「琉球漆器の美」

会場
蓬左文庫 展示室1
平成24年は「沖縄返還」40年の年。沖縄は古くは琉球と呼ばれ、漆工芸が花開きました。家康ゆかりの琉球漆器唯一の重要文化財などを公開します。

「アジアの風」

会場
蓬左文庫 展示室2
蓬左文庫所蔵の書籍や古絵図を中心に中国と周辺諸国の歴史・文化、日本との関係を示す資料を紹介します。
名古屋市東区浄妙寺蔵「茶屋新六交趾渡航図巻」(愛知県指定文化財)を特別公開します。

展示の詳細案内

「琉球漆器の美」
琉球王国は、十五世紀に中山王(ちゅうざんおう)によって統一されると海上交易を基盤にして文化・芸術が大きく発展しました。焼き物、染め物、織物、塗物など現在にも伝統が継承されています。芸能や風俗はじめ美術工芸の意匠や技法などは、中国、ベトナム、日本など多国間の交流を背景にして国際的に融合し、独自に発展した点に特色があります。徳川美術館には、家康が所有した品のほか琉球漆器の代表作が多数所蔵されています。平成24年(2012)は沖縄県がアメリカから日本に返還されてから四十年目にあたります。これを記念し、関連作を含めて特集展示します。
「アジアの風」
東西の文化が交流した信長・秀吉・家康三英傑の時代は鎖国によって幕を閉じましたが、オランダや中国を窓口とした海外貿易、朝鮮からの通信使、琉球からの使節等々、尾張徳川家の大名道具や蔵書からは、江戸という時代がアジアの風を色濃く受けていたと感じることができます。蓬左文庫所蔵の書籍や古絵図を中心に中国と周辺諸国の歴史・文化、日本との関係を示す資料を紹介します。

茶屋新六交趾渡航図巻
【「茶屋新六交趾渡航図巻(ちゃやしんろくこうちとこうずかん)」(部分)】

 
のちに尾州茶屋家二代新四郎良延(から1698)を名乗ることになる茶屋新六郎なる人物が朱印船貿易で長崎から交趾(ベトナム南部のホイアン)に渡航する様子を描いた長大な図である。所蔵者である源頂山情妙寺は、尾州茶屋家初代新四郎長吉(1577から1663)が徳川家康の菩提をとむらうために慶安年間(1648から52)に創建した寺院で、同寺には良延が交趾から持ち帰った観音画像も伝来している。この絵巻が情妙寺に所蔵されていることは、高力猿侯庵の随筆「金明録」安永7年(1778)の記事にあるが、同寺に所蔵された経緯については、茶屋家との関係も含めのその詳細は不明である。
内容は、長崎を出航し、五島列島をへて交趾に入港し、貢ぎ物を献上する姿や日本人町が描かれている。領主の舘で日本人が貢ぎ物をしている部分で、屏風や着物などを献上する裃を着けた人物の横に「茶屋新六郎」と記された紙が貼り付けられている。この図には錯簡があり、連続しない場面が貼り継がれた部分があり、当初の状態を伺い知ることが難しい状態にある。類本には、天保3年(1852)に八代茶屋新四郎延充の奥書があるほぼ同寸のもの(個人蔵)と最近確認された縦が半分以下、全長がほぼ二倍のもの(九州国立博物館蔵)の二件が確認されている。前者は情妙寺所蔵本とは同内容で、同寺所蔵本からの写しと考えられる。一方、後者は、情妙寺本には描かれていない場面も多く、茶屋新六をはじめ文字の記述は一切なく、絵巻作品として完成形に近いものである。情妙寺所蔵本をもとにして製作された絵巻もしくはその写しと考えられている。

萌黄綸子地葵紋付蔓葵文散小袖
大内義隆鎧図

平成24年1月4日(水曜日)から2月12日(日曜日)
<終了しました>

「大名の服飾」

会場
蓬左文庫 展示室1
大名は官位や家格、季節や場所、立場などに応じて、多種多様な服飾を必要としました。尾張徳川家に伝えられた、大名が公私の生活の中で用いたさまざまな衣服を紹介します。

「よろいを写す-源平武将の装い-」

会場
蓬左文庫 展示室2
泰平の世になって一世紀。時は八代将軍吉宗。役人集団となってしまった武士達が、あるべきサムライの姿を求めて昔をふり返った様子を、甲冑図を中心に紹介します。

展示室1でコーナー展示 『源氏物語』の世界
平成24年1月4日(日曜日)から2月12日(日曜日)

展示の詳細案内

大名の服飾
大名は官位や家格、季節や場所、立場などに応じ、多種多様な服飾が用いられました。尾張徳川家の当主たちも、江戸城や名古屋城で行われる儀式の際には、束帯や直垂といった儀礼用の服を身に着けていました。また狩猟や野外に出かける時には、それぞれ目的に応じた服装にあらためました。大名が公私の生活の中で用いた、さまざまな種類の衣服を紹介します。
よろいを写す-源平武将の装い-
泰平の世になって一世紀。実質的には軍人でなくなってしまい、役人としての一生を過ごせばよかった武士たち。そこへ「そもそも武士とはなんぞや」と考えた八代将軍吉宗と、その孫松平定信が登場しました。定信や、九代尾張藩主宗睦は、全国の神社などに奉納された武将の鎧の調査を命じ、写図を作成させました。甲冑の奉納主は、源頼朝・平重盛・畠山重忠など、源平合戦期の武将がほとんどです。定信や宗睦は彼らに理想の武士像を見いだしたのでしょう。

春日社所蔵 頼朝鎧之雛形
   【春日社所蔵 頼朝鎧之雛形】

蓬左文庫が所蔵する鎧図に描かれている鎧を着用していた武将は源平合戦で活躍した武将が中心である。武将名と現在の所蔵者、鎧の名称、指定など以下のとおり。
源義家 大阪・坪井八幡宮 黒韋威胴丸 重要文化財
源頼朝 奈良・春日大社 赤糸威大鎧 国宝
源義経 奈良・興福寺 焼失    
平重盛 広島・厳島神社 紺糸威鎧 国宝
佐々木盛綱 岡山・豊原北島神社 色々威大鎧 重要文化財
畠山重忠 東京・武蔵御嶽神社 赤糸威大鎧 国宝
大内義隆 広島・厳島神社 藍韋威胴丸 重要文化財
模写は、大鎧を構成する胴・袖・草摺・兜など、それぞれ部品ごとに一枚ずつ描かれ、すべて原寸大で残っているが、現物を直接写したのではなく、すでに模写された図を写したものが多いようであり、鎧の部品を模写することは、細部の製法を理解するのに役立った。なお、蓬左文庫に伝来した鎧図は、型紙のように切り抜いたものと、切り抜いていないものと両種ある。
紹介図版は、源頼朝が着用し奈良の春日社に奉納したといわれる赤糸威大鎧の写図である。調査の結果、制作年代は鎌倉時代末で、頼朝の時代とは一致しない。

源氏物語図屏風

平成23年11月12日(土曜日)から12月11日(日曜日)
<終了しました>

「源氏物語の世界」

会場
蓬左文庫 展示室1・2
源氏物語にまつわる絵画・書籍・工芸品など、成立以来様々な形で享受されてきた『源氏物語』の世界を紹介します。

展示の詳細案内

源氏系図

光源氏系図  三条西実隆編  室町時代 1冊
源氏物語の登場人物を皇族・大臣などに分け、略歴を付して系図形式で整理したもの。二世代70年余にわたり500人余りの人物が登場する『源氏物語』を人物の関係を理解して読むためには必要なものであり、すでに11世紀には、「系図」にあたるものが存在していたという。
本書は、三条西実隆(1455から1537)が編さんした実隆本系の写本。実隆本以前の「古系図」には、現在伝わらない人物の名称などが記されていたが、実隆によって「河内本」「青表紙本」成立以降の内容に即したものに統一、補正された。実隆本には、作成された年代によって数種類の写本が伝来するが、本書は最初に編さんされた長享2年(1488)成立の「長享本」の系統に属する写本である。

宮廷の雅(みやび)

平成23年9月23日(祝日・金曜日)から11月6日(日曜日)
<終了しました>

秋季特別展
「宮廷の雅(みやび)
-有栖川宮家から高松宮家へ-」

会場
蓬左文庫 展示室1・2
皇族・有栖川宮家は、江戸時代初期の好仁親王を初代とし、和歌と書道を家業として伝えました。有栖川宮家とその系譜を継いだ高松宮家伝来の美術品や歴代の愛用品などから、雅やかな宮廷の文化を紹介します。

展示の詳細案内

宮廷の雅(みやび)-有栖川宮家から高松宮家へ-
江戸時代初期に創設された皇族・有栖川宮(ありすがわのみや)家は、和歌と書道を家の学問(家学かがく)として伝え、宮廷文化を支える役割を果たしました。後陽成(ごようぜい)天皇の第七皇子・好仁(よしひと)親王を初代として大正時代まで続き、その後は大正天皇の第三皇子である宣仁(のぶひと)親王が有栖川宮を継いで、高松宮家が創立されました。
今回の展覧会では、有栖川宮家・高松宮家に伝えられた絵画・書跡・刀剣や調度類、歴代親王が着用した装束などの御遺愛品、後水尾(ごみずのお)天皇が譲位後に営まれた修学院離宮ゆかりの作品を徳川美術館第7から9展示室で、また近代以降の高松宮宣仁親王・喜久子妃の御身回りの品を蓬左文庫展示室で展示し、江戸時代から続いた皇族の文化活動を紹介します。当初の会期は4月9日から5月22日までを予定しておりましたが、東日本大震災の影響により、この秋に開催する運びとなりました。なお会期中、展示作品の入れ替えがありますのでご了承下さい。

「歿後400年  加藤清正の時代」
「城造りあれこれ」

平成23年7月27日(水曜日)から9月19日(祝日・月曜日)
<終了しました>

「歿後400年  加藤清正の時代」

会場
蓬左文庫 展示室1
七本槍や虎狩りでおなじみの加藤清正(1562から1611)の歿後400年を記念し、遺品とともに清正の生きた戦国の時代を紹介します。

「城造りあれこれ」

会場
蓬左文庫 展示室2
城は守りのための要塞。攻撃側の武器の変化につれて、城もまた進化してきました。この城造りの歴史とともに、守りのしくみについて、古城図等を用いて紹介します。

展示の詳細案内

「歿後400年  加藤清正の時代」
“賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍”や“虎狩”で知られる加藤清正は、尾張の出身(現名古屋市中村区)、この地域では特に人気のある戦国武将の一人です。清正を神として祀った“清正公(せいしょうこう)”信仰も盛んです。清正は、永禄5年(1562)に生まれ、豊臣秀吉(1537から98)に仕えました。天正9年(1581)の中国攻めのころから頭角をあらわし、その後も賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いや朝鮮出兵といった合戦に活躍しています。関ヶ原合戦時は、石田三成との確執から東軍(徳川方)に与しますが、秀吉の歿後も豊臣恩顧の大名として秀吉嫡男の秀頼に忠誠を尽くし続けました。慶長16年(1611)3月、二条城において家康と秀頼との対面の仲介役を終えると、同年6月24日、熊本で歿しました。清正の生涯は、秀吉・家康の天下統一への道程と重なります。その時代は鉄砲の組織的な使用や重層の天守などに象徴される戦国時代の佳境でした。清正の足跡をたどりながら、彼の生きた時代を振り返ります。
「城造りあれこれ」
現在、「城」といえば一般的に、白亜の天守および高い石垣、広く深い堀、といったイメージでとらえられています。いずれも世界遺産姫路城や全国各地に点在する模擬天守など、豊臣秀吉による天下統一、徳川家康による江戸開幕といった時期に造られた、いわゆる近世城郭の姿です。しかしこの「典型的な城」、近世城郭では、そのほとんどで実際には戦闘がおこなわれないまま、要塞としての役目を終えています。天下統一前夜、大名間の争いは一国あるいは数カ国の支配権を賭けたレベルの大規模なもので、全面戦争によってでは勝っても負けても双方が膨大な損耗を強いられます。特に人的損耗が激しくなる堅固で大規模な近世城郭相手の強攻策は、文字通り最終手段として忌避されました。秀吉が城を遠巻きに囲んだ水攻め・兵糧攻めを得意とし、直接の攻城戦を極力避けたのも、結果として相手が屈服しさえすればよい、という割りきりといえます。この頃に至って長らく、攻め手の攻撃に対して反撃するという受身の施設であった城郭は、”築城することによって、その城への攻撃そのものをむしろ回避させる”という興味深い終末期を迎えます。近世城郭の、こうした一面についてご紹介します。

大高古城図【大高古城図 】

大高城跡副郭東から【大高城跡副郭東から】

大高城は、現在の名古屋市緑区大高町にあった城。築城年代は不明であるが、永禄3年(1560)桶狭間の戦い当時は、尾張における今川方の重要な城であり、松平元康(徳川家康)が兵粮を敵中運び入れたことで有名。その後間もなく廃城となるが、江戸時代は尾張藩家老の志水家の館があった。現在は大高城址公園として整備されている。堀・土塁などがよく残っている。


「建中寺と尾張徳川家ゆかりの寺院-法然上人800年大遠忌-」
「名古屋の天王まつり」

平成23年5月28日(土曜日)から7月24日(水曜日)
<終了しました>

「建中寺と尾張徳川家ゆかりの寺院
-法然上人800年大遠忌-」

会場
蓬左文庫 展示室1
尾張徳川家の菩提寺・建中寺(名古屋市東区)には、歴代藩主・夫人が葬られました。本堂は市内最大の木造建築で、多くの文化財を伝えています。

「名古屋の天王まつり」

会場
蓬左文庫 展示室2
毎年6月に行われていた天王まつりについて、江戸時代の記録とからくり人形などを紹介します。

展示の詳細案内

「建中寺と尾張徳川家ゆかりの寺院-法然上人800年大遠忌-」
江戸時代、尾張徳川家ゆかりの寺院が各所に造営されました。菩提寺は初代藩主義直の歿後に造営された建中寺(市内東区)で、ここに歴代の藩主と夫人が葬られました。ほかにも、義直の時代には、生母のために相応寺(千種区)・幼少期に亡くなった兄仙千代のための高岳院(東区)、同じく兄松平忠吉のための性高院(千種区)が建立されています。また二代藩主光友も多くの寺院を創建し、菩提寺建中寺のほか、梅香院(中区)や大森寺(守山区)を創建しました。
この展覧会では、浄土宗の宗祖法然上人の800年大遠忌にあわせ、尾張徳川家によって建立された由緒深い浄土宗の寺院とそれらに伝えられた絵画、陶磁器、古文書などの文化財を紹介します。
「名古屋の天王まつり」
疫病を鎮める牛頭(ごず)天王を祀る天王まつりは、夏に疫病がはやる都市を中心に全国各地で行われます。その代表が京都の祇園祭であり、この地域では、東日本の天王信仰の中心地である津島神社の天王まつりが、16世紀半ばから行われてきました。江戸時代の名古屋城下では、6月に入ると津島神社の御立符(御札)を祀って各町内で天王まつりが行われ、6月半ば、津島神社の宵祭りのころには、三之丸天王社(亀尾天王社)、堀川東岸の広井天王社、さらに熱田の南新宮社で盛大に行われました。
東区の筒井町や古出来・新出来の各町では、現在も6月のはじめの土日には各町内から山車が出て華やかに天王まつりが行われます。近年は、恒例の山車揃えが、東区建中寺の境内だけでなく徳川園でも行われ、蓬左文庫前の広場で、からくり人形を主役に各町の山車が華麗なパフーマンスをくり広げます。今年の蓬左文庫の展示室は、江戸時代以来の名古屋の天王まつりを紹介します。

「徳川将軍と尾張の殿さま」

平成23年4月9日(土曜日)から5月22日(日曜日)
<終了しました>

臨時企画 春季特別展
「徳川将軍と尾張の殿さま」

会場
蓬左文庫 展示室1・2
尾張徳川家と徳川将軍家との関わりを中心に、将軍から譲られた品と、尾張徳川家歴代16人の個性が窺える自作・所用の品々を紹介します。

展示の詳細案内

「徳川将軍と尾張の殿さま」
徳川家康の九男義直を祖とする尾張徳川家は、御三家筆頭として高い格式を誇り、徳川将軍家を支える最も親密な家として、尾張名古屋の地を治めました。この展覧会では、尾張徳川家と将軍家との関係を示す様々な拝領品や、尾張徳川家歴代十六人の個性が窺える自作・所用の品々を紹介します。第一会場となる蓬左文庫展示室では、尾張領有の歴史をたどり、初代義直と父の家康・兄の二代将軍秀忠との関係、義直自作の書画や所用の道具を展示します。また、名古屋市蓬左文庫に引き継がれている家康遺品の貴重な書籍(駿河御譲本)や、家康の影響を受けて義直自ら蒐集・編纂し、尾張徳川家御文庫の基となった蔵書も併せて展示します。第二会場の徳川美術館本館では、二代光友より十六代義宜に至る尾張徳川家歴代当主と、三代将軍家光以降の歴代将軍が遺した品々、刀剣などの拝領品を展示します。これらの作品を通して徳川将軍家と尾張徳川家の深いつながりを感じていただければと思います。

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