平成27年2月11日(水曜日・祝日)から4月5日(日曜日)
<終了しました>
ひなの世界
源氏物語の世界②
- ■会場
- 蓬左文庫 展示室 1
- 享保雛や古今雛など、町屋に伝えられたさまざまな雛人形によって、素朴で身近な親しみを感じさせる庶民の「桃の節句」の世界を紹介します。
江戸時代の名古屋をさぐる-城・まち・ひと-
- ■会場
- 蓬左文庫 展示室 2
- 名古屋城、城下の町々、そこに住む人々など、蓬左文庫に伝来する資料から探ることのできる江戸時代の名古屋の諸相を紹介します。
展示の詳細案内
「ひなの世界と源氏物語の世界②」展示資料リスト:PDFファイル(620KB)
江戸時代の名古屋をさぐる-城・まち・ひと-
慶長15年(1610)に始まる名古屋築城以来、名古屋の町は400年以上の歴史を積み重ねてきました。長い歴史を持つ名古屋の町ですが、明治以降の都市計画や戦災復興を経て、現在の市街地から江戸時代の城下町の姿を探るのは難しくなっています。しかしながら、蓬左文庫などに残された絵図や記録は、当時の名古屋の姿を様々なかたちで伝えてくれます。この展示では、江戸時代の名古屋のすがたを、城下図や様々な記録からさぐります。ここでは、出品資料の一部を紹介したいと思います。
名古屋城築城
名古屋城普請丁場割之図 江戸時代 19世紀
※展示期間は後期:2月11日から4月5日
名古屋城築城の際に、各大名が受け持った工事持ち場を示した絵図。類似の絵図が名古屋城、宮内庁、名古屋市博物館などにも伝わっています。 慶長15年(1610)に始まった名古屋城築城は、幕府による工事(天下普請)として、中井正清を総監督とし、豊臣恩顧の諸大名に命じて進められました。本丸・本丸馬出・西之丸・二之丸・三之丸・御深井丸からなる巨大城郭は、慶長17年、およそ2年という短期間で完成しています。
広小路の誕生と幻の運河計画
名古屋堀川東伝馬町南之図 江戸時代 17世紀
大災害や大火は不幸な出来事ですが、ときには新たな街づくりのきっかけになります。
名古屋城下町も、武家屋敷120軒、町屋2200軒もの建物が焼失したとされる万治3年(1660)の大火によって、大きく姿を変えました。この大火からの復興過程で、火災の延焼を防ぐ火除地として「広小路」が設けられました。写真の「名古屋堀川東伝馬町南之図」のように、広小路を拡げてその中央に堀川から運河を通す壮大な計画もあったようですが、これは実現しませんでした。城下の中心に開けた広小路は、やがて見世物小屋や茶店が建ち並ぶ盛り場として賑わうようになりました。
初公開!知られざる明治の「城下図」-愛知県名古屋区市街地籍全図
愛知県名古屋区市街地籍全図 地巻(部分) 明治時代 19世紀 愛知県公文書館蔵
※写真は名古屋城下を東部の駿河街道・東寺町周辺を描いた部分
江戸時代の名古屋城下図には、武家地に住む武士は細かく記される一方、町人地については住民の名前どころか区画すらもほとんど記されていません。また、正確な測量による地図ではないため、現代の地図と重ね合わせることも困難です。こうした問題を解決するのに便利なのが、明治時代に作られた地籍図「愛知県名古屋区市街地籍全図」です。
この地籍図は、地租改正に伴って市街地の正確な区画を把握するために、明治17年から20年ころに作製されました。こうした目的のため、旧町人地も含めて正確な測量に基づいて、詳細な町割りが書き込まれています。制作年代は明治維新後とはいえ、未だ大規模な都市開発はほとんど行われておらず、江戸時代の城下町のすがたを多く残しています。この地籍図と、江戸時代の城下図を対照することで、城下町のすがたをより正確に復元することができるのです。この知られざる「城下図」を、今回初めて公開します。
城下のサムライたち
①稿本 藩士名寄 江戸時代 18から19世紀
城下町に暮らす藩士たちについては、蓬左文庫に残された資料から、その履歴や住所など詳細なプロフィールを知ることができます。②の『士林泝洄』は、江戸時代中期に尾張徳川家八代宗勝の命によって編さんされた藩士の系図集で、尾張徳川家に古くから仕える家臣の系図を知ることができます。
①の『稿本 藩士名寄』は、江戸時代後期にまとめられた尾張藩士の履歴集で、各藩士の職歴や賞罰、石高などを知ることができます。また、③『仮名分名寄』には、藩士名寄にはない各藩士の住所が記されています。
これらの資料と城下図を組み合わせることで、藩士の履歴、家系、居住地まで、詳細に調べることができるのです。これらの情報は、名古屋市博物館編『名古屋城下お調べ帳』(DVD)によって、パソコン上で検索できるようになりました。
※所蔵者名の表記がない画像は、いずれも名古屋市蓬左文庫の所蔵品です。
平成27年1月4日(日曜日)から2月8日(日曜日)
<終了しました>
飾り金具
源氏物語の世界①
- ■会場
- 蓬左文庫 展示室 1
- 日本美術において欠かすことのできない工芸品である飾り金具の名品を紹介し、日本文化の根底に流れる「飾る」という美意識を探ります。
展示の詳細案内
飾り金具
金属工芸には、仏具や武器・武具など、作品そのものを作りだすことと共に、他の美術品に付属する金具を製作するという大事な役割が求められていました。本来、金具とは器物に強度を与えるために取り付けられる道具でしたが、次第に金具自体に文様や細工を施して、「飾り金具」として器物を美しく飾り立てるようになります。「飾り金具」は脇役と考えられ、あまり注目されてきませんでしたが、調度品や書画を飾り、時に身体や空間をも飾り、日本の芸術・文化に豊かな表情を与えてきた欠かすことのできない作品となっています。豪華絢爛な大名道具の多くにも、器物の文様に呼応するような図様や、美しく飾られた家紋など、驚くほど精密に文様が彫られた金具が付属し、その美しさをさらに煌びやかに際立たせています。本展では、尾張徳川家に伝わった太刀拵や調度品、書画などに取り付けられた「飾り金具」の技法やデザインを紹介しながら、大名道具を彩ったこの小さな芸術作品の魅力に迫ります。
平成26年11月15日(土曜日)から12月14日(日曜日)
<終了しました>
蓬左文庫・徳川園新装オープン10周年記念
古典文学の世界 大名文化と古典
- ■会場
- 蓬左文庫 展示室1・2
- 大名家に伝来した優れた古典文学作品とともに、古典をテーマにしたさまざまな大名道具・調度を紹介し、大名文化と古典文学の諸相を紹介します。
展示の詳細案内
我が国の記紀・万葉から源氏物語・古今集等々、中国では、詩経から李白・杜甫・白楽天など唐代詩人の詩文集、古典文学の諸作品は、年月を越え読み継がれ、芸術・文化をはじめ様々な分野に影響を与え続けてきました。江戸時代の大名家において、古典文学に対する知識・教養が重視されたのはもちろん、古典文学の需要層の広がりとも相まって、華やかな調度類をはじめとして大名文化を彩るモチーフに古典文学は様々な場面で登場します。徳川家康や歴代藩主たちが精力的に収集したのは、中国の古典でした。その範囲は、政治、経済、思想から文学、芸術におよんでいます。李白や杜甫、白楽天、陶淵明など我が国でも古くから知られた著名な詩人、学者の詩文集はもちろん、『三国志』を筆頭に『西遊記』『水滸伝』など、古典に取材した小説類の絵入り版本も収集されています。
本展では、大名家に伝来した優れた古典文学の写本・版本とともに、古典をテーマにした絵画・工芸などさまざまな大名道具・調度を通して、大名文化と古典文学の諸相を紹介します。
なぐさみ草絵巻 12巻の内 序段 江戸時代17から18世紀 徳川美術館蔵
17世紀半ばに刊行された松永貞徳(1571から1653 俳人・歌学者)の講釈を弟子たちがまとめた『徒然草』の挿絵入り注釈書『なぐさみ草』(慶安5年(1652)跋)をもとに作成された絵巻である。詞書にあたる『徒然草』の本文・注釈・大意は『なぐさみ草』そのものであり、絵は『なぐさみ草』に収録された全図をモチーフにした157段に、新たに84段分が描かれている。「御側御道具帳」に記録がある尾張徳川家伝来の調度本である。『徒然草』の読者層の広がりが大名家の調度本にも反映した例のひとつであろう。
「奈良絵本」と総称される濃彩の挿絵が入った『徒然草』の絵入り本である。「奈良絵本」は中世末からお伽草子などを主な題材として制作された庶民感覚の強い絵本であったが、江戸時代に入ると、古典文学を題材に華麗な装飾を施した豪華本が作成されるようになり、「調度本」として婚礼調度の定番となった。本書は、尾張徳川家三代綱誠の正室新君(にいぎみ)(1654から92)の蔵書である。新君の母は初代義直の一人娘京姫であり、二代光友の妹にあたる。流麗な筆で書かれた本文に金砂子をふんだんに使用した鮮やかな色彩の挿絵、見返しには金箔が使用され、表紙は龍丸菱格子文金襴で、溜塗の箱の蓋の縁取りには繊細な唐草文様があしらわれている。本文は、近世以降版本を含め一般に流布した烏丸本の系統に属する。挿絵は142図、現在奈良絵本の『徒然草』は十数件確認されているが、挿絵の数は本書が最多である。現存奈良絵本の挿絵のほとんどが『徒然草』の注釈書『なぐさみ草』と共通の構図や内容を有しており、強い関連性が確認されている。ただし、版本と奈良絵本の先後の関係については議論が分かれるところである。
平成26年10月4日(土曜日)から11月9日(日曜日)
<終了しました>
秋季特別展
復古やまと絵 新たなる王朝美の世界-訥言・一蕙・為恭・清-
- ■会場
- 蓬左文庫 展示室1・2
- 平安・鎌倉の古典的やまと絵を理想として江戸時代後期に登場した復古やまと絵派の名品を一堂に会し、江戸時代によみがえった新たなる王朝美の世界を紹介します。
展示の詳細案内
- 復古やまと絵 新たなる王朝美の世界
- 江戸時代後期から幕末にかけ、平安・鎌倉時代に描かれた古典的やまと絵を理想とし、日本古来の美を追求した画家たちが綺羅星【きらぼし】のごとく登場しました。その中核をなした画家が、「復古やまと絵派」とよばれる田中訥言【たなかとつげん】(1767から1823)・浮田一蕙【うきたいっけい】(1795から1859)・冷泉為恭【れいぜいためちか】(1823から64)・渡辺清【わたなべきよし】(1778から1861)です。彼らは、幕末にかけて高まりをみせた復古思潮を背景に、名だたる古典絵巻の模写を通じて、自らの画嚢【がのう】を肥やし、新たな王朝美の世界を築き上げました。復古やまと絵は、数多くの古典絵巻を模写した訥言に始まります。その訥言に絵を学んだ浮田一蕙・渡辺清は、独自の画風で典雅なやまと絵の世界を展開しました。また、冷泉為恭は、有職故実に詳しく、早くよりその才能を開花させ、目にも鮮やかな王朝絵画の数々を創作しました。
本展では、復古やまと絵派の名品を一堂に会し、彼らが江戸後期から幕末という激動の時代によみがえらせた清雅なる王朝美の世界をあますところなく紹介します。およそ八十年ぶりに公開される名品や新出作品も多数出陳されます。ぜひお見逃しなく、御覧ください。
平成26年9月3日(水曜日)から9月28日(日曜日)
<終了しました>
墨-黒の世界-
- ■会場
- 蓬左文庫 展示室1
- 徳川美術館所蔵の書画を中心とした作品から、人々の墨にまつわる営みと、墨によってあらわされる清雅な世界を紹介します。
第一次長州征伐と尾張藩
- ■会場
- 蓬左文庫 展示室2
- 前藩主慶勝が征長総督を務め、幕末の尾張藩にとって大きな画期となった第一次長州征伐を、蓬左文庫に残された文書や藩士の記録によって振り返ります。
展示の詳細案内
- 墨-黒の世界-
墨は、絵をあらわし、また詩文を書くために用いられてきました。永きにわたって書画に遺りつづける墨からは、文雅に生きた人々の理想とした世界や彼らの個性、愉快な交友を読みとることができます。墨の色は、一見したところ黒一色ですが、その濃淡と筆勢によって、さまざまな表現が可能です。中国の水墨画の始祖とされる殷仲容<いんちゅうよう>が、「墨は五彩(赤・青・黄・白・黒)を兼ねる」と述べたように、黒という色は単色でありながら、かえって様々な色彩をイメージさせます。宮本武蔵による「蘆葉達磨図<ろようだるまず>」(徳川美術館蔵)を見てみましょう。蘆葉に乗って揚子江を渡る達磨は、筆数を減らしつつもたっぷりとした描線で描かれ、重厚感を込めてあらわされています。また、水面はゆるやかな淡墨であらわされ光をたたえ、軽やかな筆致の蘆は風をからませ揺れるようです。わずかな筆数とその筆致の違いにより対象に迫った本作品には、墨による表現の奥深さを見ることができます。
本展では、徳川美術館所蔵の書画を中心とした作品から、人々の墨にまつわる営みと、墨によってあらわされる清雅な世界を紹介します。
- 第一次長州征伐と尾張藩
- 文久3年(1863)、朝廷では破約攘夷を唱える長州藩が三条実美<さんじょうさねとみ>ら一部の公家と結びついて勢力を強めていました。同年8月18日、無謀な攘夷決行による欧米との全面開戦を恐れた孝明天皇は、薩摩藩の提案を受けて、尊王攘夷<そんのうじょうい>派の七人の公卿<くぎょう>と長州藩を京都から追放しました。翌元治元年七月、政権奪還を狙って京都に押し寄せた長州藩兵は、御所を守る薩摩・会津藩などの前に敗退しました。これによって長州藩は朝敵とされ、幕府は前尾張藩主の徳川慶勝<よしかつ>を総督に任命し、長州征伐の兵を起こします。この展示では蓬左文庫に残された史料から、第一次長州征伐に至る幕末の動乱をたどり、従軍した尾張藩士の記録などから遠征の実態を探ります。
- 1 幕末の政変
- 文久2年(1862)の秋以降、急進的攘夷派を主導する長州藩は、朝廷内にも勢力を強めていました。欧米諸国との全面戦争を恐れた孝明天皇は、薩摩藩の提案を受けて会津藩等とともに文久3年8月18日、禁裏九門を固めて朝議を開き、長州藩の京都追放を決定(八月十八日の政変)。翌元治元年6月、状況の打開をもくろむ長州の志士らが京都の旅館池田屋に集結したところを、新撰組隊士等が襲撃する事件が発生しました(池田屋事件)。これをきっかけに、長州から福原越後らが兵を率いて上京。7月19日、京都を守る諸藩兵との間で戦端が開かれ、御所周辺で激戦となりましたが、長州藩は会津・薩摩藩などの前に敗退、久坂玄瑞、来島又兵衛らが自刃しました(禁門の変)。
②洛中戦争図 一枚(青窓紀聞 137附図)
元治元年(1864)7月
①は、禁裏東側の日御門<ひのごもん>(建春門)に設けられた尾張藩御固番所の様子を、元治元年(1864)3月頃に描いたものの写し。京都の政局が緊迫するなか、禁裏の警衛にあたる諸藩は藩士を上京させて図のような番所を設けて警衛に当たった。番所には大砲二門などが配備されており、他藩の番所もほぼ同様の備えだったようである。
②は、元治元年7月19日に発生した禁門の変における、御所周辺での諸藩兵の配置と長州勢の動きを描き込んだ絵図。西側の蛤御門<はまぐりごもん>に押し寄せた長州勢と、門を守る会津勢らとの戦闘は激戦となった。長州勢は中立売御門<なかたちうりごもん>を突破して禁裏に迫ったが、対応した薩摩勢などによって退けられた。
- 2 第一次長州征伐と尾張藩
- 禁門の変に敗れた長州藩は朝敵とされ、元治元年7月24日に征長の勅旨<ちょくし>が幕府に下りました。これを受けて、幕府は前尾張藩主の徳川慶勝に征長総督就任を要請しました。慶勝は当初就任を保留していましたが、総督に全権を委任することを条件に就任を承諾しました。内乱の長期化を危惧した慶勝は、巧みな外交交渉で戦闘を避け、長州藩三家老の切腹などを条件に早期和平を実現。翌年1月には征長軍を解兵しましたが、一橋慶喜<ひとつばしよしのぶ>らから弱腰と批判され、慶勝は政治の表舞台から退きました。
元治元年(1864)10月22日、大坂城で開かれた軍議において幕府から下された軍令状の写し。内容は軍規などを記したものであるが、軍令状は開戦に当たって不可欠な文書であったため、事実上の交戦許可の意味ももっていた。
- 3 「遠征記」から見る長州征伐
- 蓬左文庫には、征長軍の一員として遠征に加わった藩士らが残した「遠征記」がいくつか残されています。従軍した藩士の多くは、征長総督本陣の置かれた広島まで遠征しました。遠征といっても戦闘を経験したわけではないので、内容は遠征途上で見た名所旧跡の様子、各地の名物などについて記した紀行文といった趣もありますが、一方でそこには公式の記録からは必ずしも見えてこない征長軍の実態も記されています。こうして記された「遠征記」から、征長軍の実態を探ります。
参考:西宮砲台(兵庫県西宮市)
(①に描かれた和田岬砲台と同型)
①② 広州越年日記(青窓紀聞 144) 一冊 元治元年(1864) 水野正信編
尾張藩重臣大道寺家の用人であった水野正信は第一次長州征伐に従軍し、その間に記した日記や他の藩士が記した遠征記の写しなどを「広州越年日記」としてまとめた。その中には、①旅先で見た名所を描いたスケッチ、②現地で収集した藩札のコレクションなども含まれる。①には兵庫港の様子が描かれ、海防のために幕府が建設した和田岬砲台(元治元年8月竣工)が描かれている。
※画像掲載資料は何れも名古屋市蓬左文庫の所蔵です。
平成26年7月16日(水曜日)から8月31日(日曜日)
<終了しました>
蓬左文庫・徳川園新装オープン10周年記念
大曽根御殿と徳川光友
記念講演会
「大名庭園の世界」
講師:白幡洋三郎氏(中部大学特任教授)
日時:7月19日(土曜日) 午前10時30分から12時
会場:徳川園ガーデンホール
聴講料:無料(※徳川園の入園料必要)
定員:当日先着 150名
- ■会場
- 蓬左文庫 展示室1・2
- 現在の徳川園の地に広大な隠居御殿・大曽根御屋敷を設けた尾張徳川家二代光友の生涯と、幻の巨大御殿・大曽根御屋敷の実態を紹介します。
展示の詳細案内
- 大曽根御殿と徳川光友
- 名古屋市蓬左文庫・徳川美術館がある徳川園の地には、かつて尾張家二代光友(1625から1700)の隠居御殿である大曽根御屋敷が設けられていました。元禄6年(1693)に家督を嫡男の綱誠(1652から99)に譲った光友は、翌々8年3月18日に新たに造営した大曽根御屋敷に移り、亡くなるまでこの地で過ごしました。一方でこの場所は、光友が誕生した場所でもあり、光友の胞衣(胎盤)を埋めたという場所が、徳川園黒門西の道路中央に現在でも残っています。屋敷は南北約700メートル・東西の最大幅約1キロメートル・約13万坪の規模を誇り、崖下には十六挺立の船を浮かべた巨大な池泉が存在していました。光友歿後は、成瀬・石河・渡辺の重臣三家の屋敷や、町屋に分割されましたが、明治維新後に再び尾張家の所有となり、大曽根邸が設けられました。光友は、初代義直(1600から50)の唯一の男子です。寛永16年(1639)に三代将軍家光の長女・千代姫(1637から98)と婚礼した際に用意された絢爛豪華な国宝・初音の調度は、現在でも徳川美術館に伝えられています。光友は、慶安3年(1650)に義直が歿した後、26歳で家督を継ぎ、尾張藩政の確立と名古屋城下の整備に尽力しました。
この展覧会では、徳川美術館に伝えられた光友の遺品を中心に、光友の生涯をたどるとともに、光友が営み、光友の死とともにわずか5年で役割を終えた巨大御殿・大曽根御屋敷の実態を紹介します。
平成26年5月31日(土曜日)から7月13日(日曜日)
<終了しました>
尾張徳川家の若君・姫君
- ■会場
- 蓬左文庫 展示室1
- 幼くして尾張徳川家の「顔」となった若君・姫君たちの、子供時代の道具や史料を通して、大名家の若君・姫君の暮らしや学び・遊びを紹介します。
名古屋まつりと山車揃え
- ■会場
- 蓬左文庫 展示室2
- 今年で第60回をむかえる名古屋まつりの歩みを振り返るとともに、徳川園山車揃えに合わせて名古屋のまつりを彩る華やかな山車を紹介します。
展示の詳細案内
- 尾張徳川家の若君・姫君
- 江戸時代の大名家では、子どもたちの無事の成長を願って、節目に宮参りや髪置・着袴など、数々の通過儀礼が執り行われました。また、子どもたちには、成長するに従い、大名家の名にふさわしい教養や学問を身につけることが求められました。江戸時代には「家」の存続が重視され、今では考えられないような年齢で家督を継ぎ、縁組・婚姻を行った例が少なくありません。尾張徳川家の歴代では、初代義直は数え8歳、四代吉通は11歳、五代五郎太は3歳、十代斉朝は8歳、十一代斉温は9歳、十三代慶臧は10歳で、御三家筆頭の尾張徳川家の当主となりました。また、国宝「初音の調度」で知られる三代将軍家光の娘・千代姫は、わずか3歳で尾張徳川家に嫁ぎました。なかでも、五代五郎太・十三代慶臧は、家督を継いで数年のうちに亡くなったため、身近に親しんだ玩具までもが遺されており、その日常生活がうかがえる点で貴重です。無事に成長することを願って行われた通過儀礼の数々と、幼くして尾張徳川家の「顔」となったがゆえに遺された子供時代の道具や史料などを通して、大名家の若君・姫君の暮らしや学び、遊びを紹介します。
- 名古屋まつりと山車揃え
- 昭和30年(1955)に始まった「名古屋まつり」は今年で第60回を迎えます(今年は10月18日、19日)。郷土英傑行列で有名な名古屋まつりですが、初期には産業振興を目的にした展示会が行われるなど、時代とともにそのあり方は変化してきました。また、徳川園山車揃えに登場する東区の山車も含む、市内の山車九輛が集まり、伝統的な祭礼の要素も取り入れられています。名古屋まつり60年の歩みを振り返るとともに、名古屋のまつりを彩る山車を紹介します。
平成26年4月12日(土曜日)から5月25日(日曜日)
<終了しました>
春季特別展
没後250年記念 徳川宗春
記念講演会
「宗春が目指したもの-もう一つの享保改革ー」
講師:大石学 氏(東京学芸大学教授)
日時:5月3日(土曜日・祝日)午後1時30分から3時
場所:徳川美術館講堂
聴講料:無料(※徳川美術館の入館料必要)
定員:150名
- ■会場
- 蓬左文庫 展示室1・2
- 尾張家歴代のなかでもとりわけ人気の高い殿様、徳川宗春。遺されたゆかりの品々を一堂に会し、数奇な運命をたどった異端の殿様の生涯をたどります。
展示の詳細案内
尾張徳川家七代宗春(1696から1764)は歴代藩主の中で最も有名で人気の高い殿さまです。三代綱誠の二十男として誕生し、34才で、奥州梁川三万石の大名となりますが、翌年には兄である六代継友が跡継ぎが無いまま歿したため、享保15年(1730)、尾張家の家督を継ぐこととなりました。宗春は、八代将軍吉宗が推進した享保の改革に真っ向から反対し、積極的な経済政策や開放的な文化政策によって名古屋に、江戸や大坂をしのぐ空前のにぎわいを呼び込みました。全国からは有力店舗の出店が相次ぎ、遊郭や芝居小屋が活気づく一方で、風俗の悪化や藩財政の破綻が始まり、積極政策の転換を余儀なくされました。この機に、危機感を募らせた竹腰等の重臣と結んだ幕府によって、隠居・謹慎を命じられ、25年におよぶ幽閉生活のままその生涯を閉じました。稀代の名君か、はたまた異端の暗君か、宗春の治世についての評価は大きくわかれます。けれど名古屋にもたらした一時の夢のような希有の繁栄は、その後の名古屋の経済、文化発展の基礎を築くこととなったには違いありません。
これまでに宗春一人をとりあげた展覧会はありませんでした。本展では没後250年を記念し、まとまって紹介されることのなかった尾張徳川家に遺されたゆかりの品々を一堂に会し、数奇な運命をたどった異端の尾張藩主の生涯をたどります。
表紙は、庶民を「慈」しみ、為政者としてのわがままを「忍」ぶことが肝要と説いた尾張徳川家七代宗春の信条を描いた軸を掛けた床の図である。太陽を背景に「慈」が、月を背景に「忍」が描かれている。宗春は享保20年(1735)、名古屋城二之丸御殿内に「慈忍の間」を設けたことが記録されており、この図はその様子を示していると推定される。この図を収録した本書の標題には「尾陽戴公」こと八代宗勝の家訓とあるが、内容は宗春が著した『温知政要』の写本である。『温知政要』は、藩主就任にあたって宗春が政治理念や施政方針を二十一ヶ条にまとめたもので、享保16年(1731)に完成し、印刷されて藩士たちに配布された。現在では版本よりも写本として伝わっているものが圧倒的に多い。『温知政要』の版本の巻頭と巻末には、丸で囲んだ朱書の「慈」と墨書の「忍」が大きく印刷されていて、この二字をそのまま写した写本も数多くある。本書にこの二字はなく、一方慈忍の間の図を収録した写本は他に例がない。『温知政要』の内容は、規制・緊縮を推し進める吉宗の改革政治への批判書である。宗春の失脚とともに禁書となり、多くが廃棄された。尾張徳川家歴代の蔵書や伝記・年譜を伝える蓬左文庫も、所用の品々や資料を伝える徳川美術館・徳川林政史研究所も藩政期から伝来する『温知政要』の版本は所蔵していない。所蔵の版本はいずれも旧尾張藩士からの近代以降の寄贈書であり、本書も含め写本は後に藩政記録編纂のために収集されたものである。標題の誤りも、「慈」「忍」の文字を欠くのも本書が世を憚って伝えられたものであることの証なのかもしれない。
温知政要 1冊 享保16年(1731)刊 名古屋市鶴舞中央図書館蔵
名古屋を代表する学者の家「河村家」に伝来した宗春からおくられたであろう『温知政要』。河村家出身の秀根は古代史研究で全国に知られた学者で、11歳で宗春に仕え、最後まで晩年の宗春に仕えた。
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