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これまでの展示案内


「徳川家康自筆書状 おかめあちゃ宛」 「徳川家康自筆書状 おかめあちゃ宛」

2023年2月4日(土曜日)から4月2日(日曜日)
<終了しました>

企画展
「読み解き 近世の書状」

会場
蓬左文庫展示室
信長・秀吉・家康をはじめとする近世の人びとの書状を展示し、書状からうかがえるエピソードや書き手の人柄などを紹介します。

展示の詳細案内

 織田信長や豊臣秀吉、徳川家康にその息子・孫の秀忠(・義直)・家光などは、歴史の授業や郷土学習で一度は名前を目にしたことがある人物たちでしょう。
ただし、教科書や物の本などで、彼らがどのような「人」であったか、あるいはお互いにどのような関係性を築いていたのかといった点を知るにはどうしても限界があります。
本展では、主にこうした近世の(愛知ゆかりの)人物をとりあげ、彼らの書状を中心に展示することで、興味深い逸話や人間関係などを紹介します。教科書だけではイメージが湧きにくい歴史上の出来事や、物の本だけでは伝わりきらない人物の人柄・心情の発露を、当時の意思伝達の主要ツールである書状の展示を通じてより身近に感じていただきます。

豊臣秀吉自筆掟書
(とよとみひでよしじひつおきてがき)

豊臣秀吉自筆掟書

 「秀吉・おねに口答えしたら・・・」
 作法・しきたり等で注意すべきことを三か条にわたり示し、禁止事項を破った場合の罰則なども記しています。おそらくは家中に宛てた掟書と推測されます。署名の「てんか」は「殿下」、つまり関白殿下・秀吉のことで、秀吉は関白就任後に度々この署名を使用しました。
 本状では具体的に、①足さすり(座ったまま移動することか)のときに居高なる姿勢をとった者は、扶持十石を没収すること、②湯殿裏への伴番を交替でつとめること、③秀吉と正室のおねに口答えしたら、一日一夜縛り付けることを掟として示しています。

桃山時代
天正13年(1585)
名古屋市秀吉清正記念館蔵

徳川家康自筆書状 おかめ・あちゃ宛
(とくがわいえやすじひつしょじょう)

徳川家康自筆書状 おかめ・あちゃ宛

 息子の快復を喜ぶ家康
 疱瘡(ほうそう)にかかった家康の九男・義直を見舞うため、家康が側室であるお亀(かめ)・阿茶(あちゃ)に宛てた自筆書状です。お亀は義直の母親であり、当時義直とともに駿府城にいました。この時期、家康は関東におり、鷹狩の途上で義直の病気について知らされ、急遽駿府へ引き返しました。その途上で義直快復の報せを受け、したためたのが本状です。義直(「さいせう」=宰相(さいしよう))の状態がよくなっていること、また症状が軽かったことはめでたく、お亀たちのうれしさをお察ししますと述べています。

江戸時代
慶長16年(1611)
徳川美術館蔵

近衛信尋書状 後水尾天皇勘返状
(このえのぶひろしょじょう ごみずのおてんのうかんべんじょう)

近衛信尋書状 後水尾天皇勘返状

 天皇直々に返事を書き込む
 江戸時代初期の公家・近衛信尋から実兄・後水尾天皇に仕える女官(にょかん)・菅式部への書状ですが、実質的には天皇へ宛てた書状です。信尋は後陽成(ごようぜい)天皇の第四皇子で、叔父・近衛信尹(のぶただ)の養嗣子(ようしし)となり、近衛家を継ぎました。書や和歌に造詣が深く、後水尾天皇とともに宮廷サロンの中心的役割を担っていました。
 本状は信尋が後水尾天皇に宛てて、来たる24日の和歌御会に詠進する「夏雲」の兼題をいかに詠みこなすべきか指南を仰ぐため、いくつかの質問を投げかける内容となっています。これに対し、天皇は細字で手紙の行間に返事を書き込み、信尋の質問に一つ一つ答えています。このような往復書簡を勘返状(かんべんじょう)といいます。歌の道に執心する二人のやりとりを一度に窺える贅沢な書状です。

江戸時代
17世紀
徳川美術館蔵

田中訥言書状 源八・文吉宛
(たなかとつげんしょじょう げんぱち・ぶんきちあて)

田中訥言書状 源八・文吉宛

 「近年の珍事、土産話に」
 江戸時代後期の画家・田中訥言が源八と文吉に宛てた書状です。前日、二人と遊郭(ゆうかく)と思しきところに遊び、両者が帰った後のエピソードを伝えています。訥言の相手をしに来た娘のともし油の匂いがきつく、残肴(ざんこう)にたかる蝿(はえ)を追い払う娘の様子がまるで犬のようで恐ろしかったったため、訥言は早々に旅宿に帰り、茶漬けを食べて寝てしまったといいます。「近年ノ珍事」で土産話になりそうだと面白がっており、訥言の茶目っ気が窺えます。絵文字が多用され、また「障子サラサラ」「茶つけさらさら」など擬態語が交じった文章が特徴的です。

江戸時代
文政元年(1818)
徳川美術館蔵

与謝蕪村絵入り書状
(よさぶそんえいりしょじょう)

与謝蕪村絵入り書状

 上客にはちゃっかりしっかり売り込みます!
 俳人・画家である与謝蕪村が、安永7年(1778)に京都を訪ねた尾張の俳諧宗匠・久村暁台(くむらきょうたい)と井上士朗らに対してしたためた書簡です。蕪村は名古屋を「文華之土地」と持ち上げ、『おくのほそ道』の絵巻をユーモラスに売り込んでいます。文末には京都の料亭で戯(たわむ)れた様子を描いて「尾張名古屋は士朗でもつ」とたたえていて、親しげな関係性も垣間見えます。

江戸時代
安永7年(1778)
名古屋市博物館蔵


「龍文箔絵軸筆」 「龍文箔絵軸筆」

2023年1月4日(水曜日)から1月29日(日曜日)
<終了しました>

企画展
「徳川文房博」

会場
蓬左文庫展示室
尾張徳川家に伝来した文房具を一堂に会し、文房(書斎)で用いられた様々な道具と、大名文化における文房具の役割について紹介します。

展示の詳細案内

 中国では、文房(書斎)で用いる道具のうち特に筆・墨・硯・紙の四つを「文房四宝(ぶんぼうしほう)」と呼んだように、高級官僚である文人たちは、自らの文房で読書を行い、書画を鑑賞するとともに、選りすぐりの文房具を用いて愛でました。
 大名道具でも文房具は欠くことはできません。広間には唐物(からもの)の文房具が飾られ、婚礼調度にも文台(ぶんだい)・硯箱(すずりばこ)・料紙箱(りょうしばこ)など、蒔絵で華美に装飾された文房具が製作されました。
 本展覧会では、尾張徳川家に伝来した文房具を紹介するとともに、文房具の歴史と、大名文化の中での文房具の役割を辿ります。

高麗紫石硯 大名物
(こうらいしせきけん)

高麗紫石硯 大名物

 徳川家康の遺産「駿府御分物(すんぷおわけもの)」として尾張家初代義直(よしなお)へ伝えられた硯です。「高麗」と伝わりますが、硯石の中でも広東省肇慶(ちょうけい)から産出する最上石・端渓(たんけい)石と考えられています。この硯石のような柔和な赤紫色の端渓石を猪肝(ちょくかん)色や馬肝(ばかん)色と呼びます。また、上部および下部に穴の空いた山形があり、左側に丸い三つの穴と短冊形の切り込みを付けた非常に珍しい姿です。

古田織部・徳川家康(駿府御分物)・徳川義直(尾張家初代)所用
南宋時代
13世紀

端渓雲龍硯 銘 御書之寶・元鼎伍年孟秋日製
(たんけいうんりゅうけん めい ごしょのほう・げんていごねんもうしゅうびせい)

端渓雲龍硯 銘 御書之寶・元鼎伍年孟秋日製

 高さが7から10センチほどの長方形で、背面に手を入れて持ち運べるように、手前から深く掘り込まれています。このような姿の硯を、太史硯(たいしけん)と呼び、格調高い硯として尊ばれました。太史とは中国古代の天文・暦法などを司った官職です。
 墨を貯める墨池(ぼくち)に彫られた龍の右に円柱があり、そこに淡緑色を主調とする二重の丸い模様が見えます。この模様は動物の眼に似ていることから「眼(がん)」と呼ばれ、美材として重んじられました。また、墨堂(ぼくどう)には輪郭線が不明瞭な白い石紋が広がっています。眼と同じく珍重された石紋に、蕉葉白(しょうようはく)や魚脳凍(ぎょのうとう)などと呼ばれる白い石紋があります。

明時代
16から17世紀

堆黒屈輪文軸筆
(ついこくぐりもんじくふで)

堆黒屈輪文軸筆

 筆管(ひつかん)と平行に波型の屈輪文が深く彫り込まれ、漆の積層は、黒八層、朱七層の十五層もあります。漆を何層も塗り重ねてから文様を彫り表す「彫漆(ちょうしつ)」の一種で、堆黒は最表層に黒色が現れるように彫り出す技法です。大乗寺(石川県)に伝わる南宋時代の払子(ほっす)に類例があり、おそらくこの筆も、払子などの柄部分を改造して、筆に転用されたと推定されます。

南宋時代
13世紀

龍香御墨 大明宣徳年製
(りゅうこうぎょぼく だいみんせいとくねんせい)

龍香御墨 大明宣徳年製

 尾張徳川家伝来の龍香御墨の中では最も古い墨です。「牛舌形(ぎゅうぜつがた)」と呼ばれる楕円型の墨で、表には龍が火炎宝珠(かえんほうじゅ)を追う「行龍趕珠図」が刻まれ、裏には「大明宣徳年製」と陰文で記されています。この宣徳年製の龍香御墨は、世界でも数挺しか確認されていない貴重な品です。

明時代
宣徳年間<1426から35>

泰初彙茅 程君房製墨
(たいしょいほう ていくんぼうせいぼく)

泰初彙茅 程君房製墨

 明時代の二大墨匠(ぼくしょう)として名が挙がるのが、程君房(ていくんぼう)と方于魯(ほううろ)です。共に墨譜(ぼくふ・墨のカタログ)を刊行して競い合い、墨の種類も多く遺されています。程君房は若くして官界を志しましたが、郷里で製墨に従事したといわれ、墨譜『程氏墨苑(ていしぼくえん)』を刊行し、神宗(しんそう)皇帝に墨を献上するなど名声をあげました。「泰初彙芽」は形状が珍しく、刻線の生動から程君房製の墨の中でも最優品の一つと評価されます。

明時代
16から17世紀

初音蒔絵文台・硯箱
(はつねまきえぶんだい・すずりばこ)

初音蒔絵文台・硯箱

 寛永16年(1639)9月22日、三代将軍家光の娘・千代姫(ちよひめ)が、尾張徳川家二代光友(みつとも)に婚嫁する際に持参した調度です。初音の調度の名は、『源氏物語』の「初音」の帖「年月を 松にひかれて ふる人に 今日鴬の 初音きかせよ」の歌意を全体の意匠としているところからきています。 硯箱の内側には硯・銀製の水滴・墨を挿して持ち手とする墨挟(すみばさみ)・錐(きり)・刀子(とうす)が納められています。細い錐や刀子にまで蒔絵を施し、金具は銀で作るなど、贅を尽くした硯箱です。

国宝
霊仙院千代姫(尾張家2代光友正室)所用
江戸時代
寛永16年<1639>


「雪中鷹捉搦鶴図」 「雪中鷹捉搦鶴図」

2022年11月12日(土曜日)から12月15日(木曜日)
<終了しました>

企画展
「鷹狩(たかがり)」

会場
蓬左文庫展示室
飼い馴らした鷹を使って獲物を捕らえる鷹狩は、日本では古代から行われていました。鷹狩道具をはじめ、狩りに関わる人々や場にも焦点を当てつつ、鷹狩の世界を紐解きます。

展示の詳細案内

 鷹狩は飼い馴らした鷹を用いて獲物を捕らえる狩りで、日本でも古代から江戸時代にかけて、天皇や貴族、武士の間で好んで行われました。鷹狩は鷹を狩るのではなく、鷹で狩る点においても他の「狩り」とは異なる側面を持ちます。鷹や捕えた鳥は献上・拝領の対象となるなど儀礼的な側面がある他、鷹狩を行うための鷹を育てる技術や鷹場(たかば)などの支配も欠かせない要素のひとつです。
 本展では、鷹狩に関わる人々や場にも焦点を当てつつ、鷹狩の世界を紐解きます。

鷹狩図屏風 六曲一双
(たかがりずびょうぶ)

鷹狩図屏風 六曲一双

 右隻の桜、左隻の紅葉と華やかな遊興の印象が強い屏風ですが、右隻・左隻ともに鷹狩の様子が描かれています。陣太鼓を叩く人・犬を連れた犬飼・建物の前で休憩する勢子(せこ)・鷹が捕らえた獲物の確保に走る鷹匠など、鷹狩に関わる様々な人々も描かれています。

斉藤芳克氏寄贈
江戸時代
18世紀

雪中鷹捉搦鶴図 狩野養川院惟信筆
(せっちゅうたかそくじゃくつる ず)

雪中鷹捉搦鶴図 狩野養川院惟信筆

 作品名に「鶴」とありますが、コウノトリをオオタカが捕らえている瞬間を描いています。鷹が獲物を捕らえた後は、鷹匠が鷹に獲物を盗られたと思われないようにさっと代わりの肉(口餌(くちえ))とすり替えて回収します。

江戸時代
18世紀

尾張家御鷹場絵図
(おわりけおたかばえず)

尾張家御鷹場絵図

 尾張藩の鷹場を示した絵図で、藩主や藩士の鷹場ごとに色分けされています。主に着色していない箇所が藩主の鷹場で、とりわけ銀色の線の内側の「御秘蔵之御鷹場」は特別な場所でした。

江戸時代
18から19世紀

鷹狩絵巻 二巻
(たかがりえまき)

鷹狩絵巻 二巻

 大名一行が鷹狩に向かう場面から、各所で鷹狩を行っている様子を描いています。尾張徳川家の藩主の鷹狩の様子を描いているわけではありませんが、行列を組んで鷹場まで向かい、鷹狩をしていたと考えられます。

江戸時代
17から18世紀
徳川林政史研究所蔵

鷹図屏風 八曲一双のうち右隻 神谷晴真筆
(たかずびょうぶ)

鷹図屏風 八曲一双のうち右隻 神谷晴真筆

 架鷹図(かようず)は過去の作例を参考にして似た姿が描かれることは多くあり、本屏風もその可能性が高いと考えられます。ただし、左隻四扇目の、片足を上げて顔の周りを搔く姿の図は類例がなく、実際に鷹を観察し、オリジナルな構図で描いた可能性も考えられます。一方で、幼鳥か成鳥か、オオタカかハイタカかに関わらず、いずれのタカもほぼ同寸で描かれていることから絵画としてのデフォルメもされています。

江戸時代
19世紀

黒塗富士に茄子蒔絵餌合子・牡丹文金銀糸織覆
(くろぬりふじになすまきええごうし・ぼたんもんきんぎんしおりおおい)

黒塗富士に茄子蒔絵餌合子・牡丹文金銀糸織覆

 餌合子は鷹に与える餌である鳥の生肉を入れておくための楕円形の容器です。肉は薄くスライスし、並べ入れます。鷹は血の色である赤に反応するため、中は朱塗になっています。携帯できるよう、覆いに収納して印籠(いんろう)のように腰から吊り下げます。餌合子は容器の身を蓋で叩いて音を出し、鷹を呼び戻すためにも用います。

徳川慶勝(尾張家14代)所用
江戸時代
18から19世紀


「重文 唐物茶壷」 「脇差 銘 吉光」 「重文 唐物茶壷」
「脇差 銘 吉光」

2022年9月17日(土曜日)から11月6日(日曜日)
<終了しました>

秋季特別展
「名物-由緒正しき宝物-」

会場
蓬左文庫展示室
 徳川美術館本館展示室
茶の湯道具や刀剣などのうち、名の知られた由緒ある優品は「名物(めいぶつ)」と呼ばれ貴ばれました。尾張徳川家の収蔵品を中心として、名だたる名物の数々をご覧いただきます。

展示の詳細案内

 室町時代頃から、茶の湯道具や刀剣などを主として、名の知られた優品は「名物(めいぶつ)」と呼ばれるようになりました。名物の条件には、世間で有名であることやそのものの魅力のみならず、戦国武将や千利休などの茶人といった歴史的人物によって有されていたこと―由緒(ゆいしょ)―に重きが置かれていました。歴史的なお墨付(すみつ)きを得た作品とも言える名物は、現代の作品評価にも大きな影響を遺しています。
 本展は、尾張徳川家が収蔵した茶の湯道具と刀剣を中心として、名だたる名物の数々をご覧いただくとともに、名物の展開をたどります。

脇指 無銘 貞宗 名物 物吉貞宗
(わきざし むめい さだむね めいぶつ ものよしさだむね)

脇指 無銘 貞宗 名物 物吉貞宗

 相模国の貞宗による脇指で、堂々とした姿に多様な変化ををみせる刃文を焼いている。由緒書「物吉記」によると、物吉の名は縁起の良いことを意味し、家康が本刀を帯て出陣すると必ず勝利したことに因むという。
 尾張家初代義直(よしなお)から本刀を受け継いだ二代光友(みつとも・1625から1700)は、祖父・家康所縁の本刀を重視し、物吉という名も光友の命名という記録がある。光友歿後、本刀は家宝の筆頭とみなされ、新当主が本刀を受け継ぐ儀式も行われるようになった。

南北朝時代 14世紀
徳川美術館蔵
重要文化財

刀 金象嵌銘 本多美濃守所持 義弘 本阿(花押) 名物 桑名江
(かたな きんぞうがんめい ほんだみののかみしょじ よしひろ
ほんあ(かおう) めいぶつ くわなごう)

刀 金象嵌銘 本多美濃守所持 義弘 本阿(花押) 名物 桑名江

 越中国(富山県)の郷(江)義弘は、『享保名物帳』で吉光(よしみつ)・正宗(まさむね)に準じて高く評価された刀工である。本刀は板目(いため)に柾目(まさめ)の交じる地鉄(じがね)で、刃文は小湾(このたれ)に互の目が交じり多彩な変化をみせる。
 名は伊勢国桑名(三重県桑名市)から出たことに由来する。本刀を磨上げ、金象嵌銘を入れたのは、徳川家康の功臣・本多忠勝(ただかつ)の子で伊勢国桑名二代藩主となった本多忠政(ただまさ・1575から1631)である。その後も、忠勝の直系にあたる岡崎本多家に伝来した。

南北朝時代 14世紀
京都国立博物館蔵
重要文化財
展示期間:2022年9月17日から10月16日

瀟湘八景 洞庭秋月図 伝牧谿筆 大名物
(しょうしょうはっけい どうていしゅうげつず)

瀟湘八景 洞庭秋月図 伝牧谿筆 大名物

 南宋時代末期から元時代初期の画僧・牧谿(もっけい)による中国・湖南省の洞庭湖(どうていこ)に注ぐ湘江(しょうこう)と瀟水(しょうすい)流域の景勝八図を描いた、「瀟湘八景図」の一幅とされ、古来、東山御物として有名である。
 足利将軍家で巻物から掛幅に分割・改装され、室町時代末期には同家から散逸し、以後、天下人や茶人たちによって名物としてもてはやされた。
 本幅は墨色の微細な階調の変化で、月の浮かぶ夜の湖畔の光と水と大気を表した名画である。昭和18年収蔵。 『清玩名物記』『山上宗二記』『玩貨名物記』ほか所載。

南宋時代 13世紀
徳川美術館蔵
展示期間:2022年10月18日から11月6日

唐物茶壺 銘 松花 大名物
(からものちゃつぼ めい しょうか)

唐物茶壺 銘 松花 大名物

 現存する茶壺の中で、茶会記や軍書などの記録に最も頻繁に登場する茶壺である。
 『信長公記(しんちょうこうき)』には、天正4年(1576)の安土城天守完成時に、「唐物茶壺 銘 金花」と共に祝賀の品として贈られ、信長が喜んだことが記されている。本品は「かくれなき名物」として名高かった。『山上宗二記』では「松嶋」「三日月」(ともに本能寺の変で焼失)と並んで三大名物茶壺とされている。
 『清玩名物記』『天正名物記』『山上宗二記』『玩貨名物記』『古今名物類聚』ほか所載。

南宋-元時代 13-14世紀
徳川美術館蔵
重要文化財

千利休竹茶杓 銘 泪 大名物
(せんのりきゅうたけちゃしゃく めい なみだ)

千利休竹茶杓 銘 泪 大名物

 千利休の茶杓として最も名高い品で、『玩貨名物記』に「なみた 利休作織部所持 尾張様」とあり、古田織部が所持していたとされる。
 真削りし、面取を施した筒の向かって右傍らに横長の窓をあけ、外面を真塗とする。茶杓は、櫂先(かいさき)が中央に一本の溝が走る一本樋(いっぽんひ)である点や、節の高い竹を用いて裏刳(ぐ)りを深く入れた蟻腰(ありごし)である点など、利休の茶杓の特徴を完備している。全体的に慎ましやかながらも重厚感を備えた優品である。
 『玩貨名物記』『古今名物類聚』ほか所載。

桃山時代 16世紀
徳川美術館蔵
展示期間:2022年10月18日から11月6日

龍巌徳真墨蹟 鉄牛雅号偈 名物
(りょうがんとくしんぼくせき てつぎゅうがごうげ)

龍巌徳真墨蹟 鉄牛雅号偈 名物

 「正徳四年道具代價帳」に記載された、元時代の臨済僧・龍巌徳真(りょうがんとくしん・1255から?)の墨蹟で、重要文化財「龍巌徳真墨蹟 無夢雅号偈」(東京・根津美術館蔵)に次いで確認された、現存二例目の同僧の墨蹟である。
 銀座年寄・中村内蔵助が本幅を購入するにあたり、内蔵助がパトロンであったとされる尾形光琳(こうりん)の弟・尾形乾山(けんざん・1663から1743)を通じて、「名物」である本幅の由緒などの問い合わせをした際の返答の書状が附属しており、当時の京都町人において名物が珍重されていたことを物語る。本展において初公開となる。
 『正徳四年道具代價帳』ほか所載。

元時代 至順2年(1331)
個人蔵
展示期間:2022年9月17日から10月16日

高取肩衝茶入 銘 染川 中興名物
(たかとりかたつきちゃいれ めい そめかわ)

高取肩衝茶入 銘 染川 中興名物

 高取焼茶入の中でも最も景色に優れた茶入で、『古今名物類聚』に記載がある。福岡黒田家二代忠之(ただゆき)から銘を頼まれた小堀遠州が、本品を目にした人で魅了されない人はいないという意味で、『伊勢物語』六十一段の「染川を わたらむ人の いかてかは いろになるてふ ことのなからむ」(染川〈現在の福岡市中央を流れる御笠川〉を渡る者がどうして色に染められないでいようか)に因んで名付けている。本品は複雑に掛け分けられた鉄釉や藁灰釉(わらばいゆう)などの釉薬が、華麗なまでの景色を呈している。
 『古今名物類聚』『麟鳳亀龍』『大正名器鑑』ほか所載。

江戸時代 17世紀
個人蔵
展示期間:2022年9月17日から10月16日

瓦獅子香炉 伝長次郎作 大名物
(かわらししこうろ)

瓦獅子香炉 伝長次郎作 大名物

 松平不昧の旧蔵品で、『雲州蔵帳(うんしゅうくらちょう)』において「大名物」に分類された香炉である。もとは千利休、小堀遠州が所持しており、遠州から小堀家に代々伝わっていたところ、天明8年(1788)の利休忌に合わせて小堀家から姫路酒井家15代宗雅(そうが)(忠以(ただざね)、1755から90)が入手した。
 龍泉窯青磁などに見られる玉取獅子の香炉に倣って作られ、獅子の首を通って口から香気が上がるようになっている。
 『遠州蔵帳』『古今名物類聚』『雲州蔵帳』ほか所載。

桃山-江戸時代 16-17世紀
個人蔵


「豊国祭礼図屏風」 「豊国祭礼図屏風」

2022年7月24日(日曜日)から9月11日(日曜日)
<終了しました>

企画展
「祭りの世界-風流(ふりゅう)と仮装-」

会場
蓬左文庫展示室
祭りは宗教的行事でもあり、人々が心躍らせる娯楽でもありました。江戸時代の祭礼図を中心に、見た目にも美しく楽しげな仮装や出し物に着目し、その豊潤な世界を紹介します。

展示の詳細案内

 祭りは「祀る」と語源を同じくし、祈りや供物を捧げる宗教的行事が本義ですが、次第にその華やかさや賑やかさが強調され、人々の眼を楽しませる娯楽ともなりました。祭りといえば、多くの人々が集う、賑やかで楽しげな祝祭が注目され、「お祭り騒ぎ」という言葉も生まれました。
 なかでも「祭礼図」として描かれた祭りは、風流(ふりゅう)と呼ばれる飾りや造り物、人々の仮装に趣向が凝らされ、見た目にも美しく、それ自体が強い祝儀性を帯びています。
 本展では、こうした祭礼の風流のなかでも、人々の仮装に注目して、江戸時代の祭礼図を中心に、その豊潤な世界を紹介します。

豊国祭礼図屏風 六曲一双
(ほうこくさいれいずびょうぶ)

豊国祭礼図屏風 六曲一双

 慶長9年(1604)8月の豊国臨時祭礼のうち、右隻に豊国神社の社頭における田楽・猿楽の奉納と騎馬行列、左隻には方広寺(ほうこうじ)大仏殿を背景に、上京・下京の町衆による踊りが描かれています。千人近くの人物を大画面に構成し、群衆が織りなす祭礼の熱狂や狂騒が、華麗な彩色と力強い筆致で見事に描き出された祭礼図の名品です。揃いの衣装もさることながら、花を手に持ち、個性豊かな帽子や頭巾をかぶる人々、風流踊りの一つ物と呼ばれる出し物では、大黒・恵比寿・布袋などの七福神や南蛮人のほか、竹の子の着ぐるみなど奇抜な姿に扮した人々が大勢登場し、祭りをいっそう盛り上げました。

岩佐又兵衛筆 蜂須賀家伝来
江戸時代 17世紀
(展示期間:2022年7月24日から8月23日)
重要文化財

津島社祭礼図屏風 六曲一双の内 左隻
(つしましゃさいれいずびょうぶ)

津島社祭礼図屏風 六曲一双の内 左隻

 宵祭(よいまつり)の巻藁船(まきわらぶね)4艘と、朝祭(あさまつり)の車楽(だんじり)2艘と大山(おおやま)1艘が、見物や物売りの小船とともに天王川を渡る様子が描かれています。宵と朝と異なる時間の見せ場を、金雲で区切って一図にまとめた構図は、津島祭礼図のなかでも時代の下がる作例と考えられます。車楽と大山(高大な山車)は、ともに戦国時代の形態をとどめた山車で、上部に能人形やからくり人形を置き、小袖幕(こそでまく)と呼ばれる色鮮やかな幕で櫓(やぐら)を覆い、美麗が尽くされました。

津島伴家伝来 岡谷家寄贈
江戸時代 18世紀
(展示期間:2022年8月24日から9月11日)

名古屋東照宮祭礼図屏風 六曲一双
(なごやとうしょうぐうさいれいずびょうぶ)

名古屋東照宮祭礼図屏風 六曲一双

 名古屋東照宮祭礼の長大な行列を左下から右上へとつづれ折りに描いた屏風です。当初は八曲一双の屏風でしたが、伝来の途中で六曲一双に改装されたため、画面に欠落と順序の乱れがあります。上長者町の山車が鐘巻道成寺であることや、寛文12年(1672)にはじまる福井町・富田町の小母衣(こほろ)と、元禄3年(1690)まで行われた伝馬町等の田植えの警固(けいご)(仮装行列)が描かれていることから、17世紀後半に描かれた現存最古の作例と推測されます。

江戸時代 17世紀
個人蔵
(展示期間:2022年8月24日から9月11日)

名古屋東照宮祭礼図巻 九巻の内 総巻・四巻
(なごやとうしょうぐうさいれいずかん)

名古屋東照宮祭礼図巻 九巻の内 総巻・四巻

 名古屋東照宮祭礼を全九巻に描く豪華図巻のうち総巻と呼ばれる一巻です。祭り好きで知られる尾張徳川家十代斉朝(なりとも)への献上本として製作されました。行列のみの八巻と、行列と風景と併せて描く総巻の全九巻からなります。総巻には、名古屋城三之丸の東照宮から本町御門を抜け、本町筋を進んで御旅所に至る約2キロの道のりを行く神輿渡御(しんよとぎょ)の行列が、色鮮やかな彩色で描かれています。筆者の森高雅(もりたかまさ・1791から1864)は江戸時代後期に活躍した尾張の絵師です。

森高雅筆
江戸時代 文政5年(1822)
会期中巻き替え

御鍬祭真景図略 三冊の内 第二冊
(おくわまつりしんけいずりゃく)

御鍬祭真景図略 三冊の内 第二冊

 本書は三冊からなり、第二冊は尾張藩士・高力種信(こうりきたねのぶ)(猿猴庵(えんこうあん))の原本をもとにした小田切春江(おだぎりしゅんこう)の転写本です。文政10年(1827)の夏から秋にかけて名古屋近在の村々で行われた御鍬祭の一場面です。本図は若者たちが白鼠に扮して大根を曳(ひ)く行列が描かれています。祭りには村々からさまざまに工夫を凝らした仮装行列や造り物が出されましたが、なかでも動物の仮装は人気だったようで、大きな桃を担ぐ猿や狐の嫁入りなどのユニークな仮装もみられます。ほかには巨大な鯨やおたふくの面などを担ぐ行列などがあり、その発想力には驚かされます。

小田切春江転写
江戸時代 文政10-11年(1827から28)
名古屋市博物館蔵 会期中頁替

神田明神祭礼図巻 二巻の内
(かんだみょうじんさいれいずかん)

神田明神祭礼図巻 二巻の内

 弘化4年(1847)に行われた神田祭の祭礼行列のうち、神田塗師(ぬし)町による松竹梅を主題とした附祭(つけまつり)です。「老松(おいまつ)の学び」と題した踊り台には、松を背景に秦の始皇帝と唐女が描かれていますが、貼札をめくると、高砂(たかさご)の尉(じょう)と姥(うば)に変わるという仕掛けです。地走(じばし)りと呼ばれる踊りは、娘たちが竹模様の小袖で、雀踊りを軽やかに踊る様子が描かれています。祭りを盛り上げる囃子(はやし)は、常磐津節や清元節などの人気芸人が三味線や長唄を担当したことが知られています。

建中寺徳川慶臧墓所出土品
徳川慶臧(尾張家13代)所用
江戸時代 弘化4年(1847)


「宮参り行列図」 「宮参り行列図」

2022年5月28日(土曜日)から7月18日(月曜日・祝)
<終了しました>

企画展
「大名の冠(かん)・婚(こん)・葬(そう)・祭(さい)」

会場
蓬左文庫展示室
誕生や成長、成人、結婚、長寿を祝う行事や葬儀など、大名家の人々が人生の節目におこなった冠婚葬祭について、尾張徳川家の伝来品を中心に紹介します。

展示の詳細案内

 人は生まれてから生涯を終えるまでの間、誕生や成長、成人、結婚、長寿の祝いや葬儀といったさまざまな儀礼を経験します。これら通過儀礼は時代や身分・性別に よっても異なり、江戸時代の大名家においても同様に、数多くの通過儀礼が行われました。このなかには、家督相続後初めて将軍へ御目(おめ)見(み)えする、大名ならではの儀礼も含まれていました。
 本展覧会では、大名家において行われた冠婚葬祭などの儀礼を、尾張徳川家の伝来品を中心に紹介します。

花色地蔓葵紋付子持筋熨斗目
(はないろじつるあおいもんつきこもちすじのしめ)

花色地蔓葵紋付子持筋熨斗目

 尾張家三代綱誠(つななり)・四代吉通(よしみち)の幼児服で、唐草の蔓(つる)を葵紋に加えた蔓葵紋を付けた熨斗目(のしめ)です。胸部や背面につく太細二本の横縞は親子に見立てた「子持筋(こもちすじ)」と呼ぶ吉祥の意匠、裏地の紅も子孫の繁栄を願った意匠です。熨斗目は武家男性の礼装で、裃(かみしも)と共に用いた着物です。

徳川綱誠(尾張家3代)・吉通(同家4代)幼児服
江戸時代 17世紀
(展示期間:
2022年6月21日(火)から7月18日(月))

徳川直七郎(斉温)宮参り行列図 二巻の内
(とくがわなおしちろう(なりはる)みやまいりぎょうれつず)

徳川直七郎(斉温)宮参り行列図 二巻の内

 尾張家十一代斉温(なりはる)となった徳川直七郎(なおしちろう)は十一代将軍家斉(いえなり)の十九男として、文政2年(1819)に生まれました。この巻物には直七郎が7歳の時に行われたお宮参りの行列が描かれています。お宮参りは通常生後一年以内に行われる習わしですが、斉温は4歳で尾張家の養子となった後、7歳でお宮参りを行いました。尾張家の江戸屋敷から赤坂の山王社(日枝神社)へ参詣し、帰りに江戸城本丸大奥へ立ち寄って、祝いの品々を贈られました。

江戸時代 19世紀

黒塗白糸威具足
(くろぬりしろいとおどしぐそく)

黒塗白糸威具足

 「具足(ぐそく)始め」もしくは「具足召初(めしぞめ)」は、武家の男の子が甲冑(具足)を初めて着ける行事です。本品は、尾張家三代綱誠(つななり)の具足始めに際し、父の二代光友から贈られた一領で、「代々様御譲」として、尾張家歴代の嗣子の具足始めに用いられました。子どもが着用するため小ぶりに作られています。十六代義宜(よしのり)が戊辰戦争参戦のため北越方面に出征した際にも、この甲冑を携えました。威糸の白と耳糸・菱縫などの紅とが慶事にふさわしく、華やかななかにも立派な武将として成長する願いが込められている様子がうかがわれます。

徳川綱誠(尾張家3代)・義宜(同家16代)所用
江戸時代 17世紀

徳川家光一字書出 徳川光義(光友)宛 寛永十年十二月廿九日
(とくがわいえみついちじかきだし とくがわみつよし(みつとも)あて)

徳川家光一字書出 徳川光義(光友)宛 寛永十年十二月廿九日

 尾張家二代光友は、寛永10年(1633)、9歳の時に江戸へ上り、12月29日に登城して元服の儀が行なわれ、三代将軍家光から「光」の一字(偏諱(へんき))を拝領しました。光友はこの時に光義(みつよし)と称し、寛文12年(1672)に光友と改名しました。大名にとって、将軍から一字を拝領することは至上の名誉であり、将軍から正式な跡取りであると認められたことを意味しました。徳川将軍の一字書出は幕末の十五代慶喜まで行われましたが、本品は現存最古級の一字書出にあたります。

江戸
寛永10年(1633)

鬢曽木鋏・小刀・銀泔坏・葵紋蒔絵泔坏台
(びんそぎばさみ・こがたな・ぎんゆするつき・あおいもんまきえゆするつきだい)

鬢曽木鋏・小刀・銀泔坏・葵紋蒔絵泔坏台

 皇女や公家、高位の大名の女性が16歳の6月16日に行う儀礼に鬢曽木(びんそぎ)があります。それまで長くのばしていた鬢(びん)(耳前の髪の毛)の先を切りそろえる儀式で、切るという言葉を忌(い)み「そぐ」と呼ぶのが習わしです。碁盤の上に青石を置き、女の子は吉方を向いて青石を踏み、碁盤の上に立ち、父兄や許嫁(いいなずけ)に鬢を切ってもらいます。これらの道具一式は、二代光友の正室・千代姫が用いたと考えられ、尾張家初代義直からの求めに応じて公家の二条康道(やすみち)が贈った式次第の書付が添っています。

伝霊仙院千代姫(尾張家2代光友正室)所用
江戸時代 17世紀

純金花鳥図香盆飾り
(じゅんきんかちょうずこうぼんかざり)

純金花鳥図香盆飾り

 寛永16年(1639)に行われた千代姫の婚礼の際に尾張家へもたらされた調度の一部である純金製の香盆飾りで、香盆の芯に木が用いられている他は全て純金が使われています。阿古陀形香炉・炷空入(あこだがたこうろ・たきがらいれ)が附属しています。将軍家の姫君の道具にふさわしく、しっとりとした上品な輝きを失わない黄金の婚礼調度です。

重要文化財
霊仙院千代姫(尾張家2代光友正室)所用
江戸時代 寛永16年(1639)

福君江戸下向行列図
(さちぎみえどげこうぎょうれつず)

福君江戸下向行列図

 尾張家十一代斉温(なりはる)の継室(けいしつ)(後妻)として関白近衛家から嫁いだ福君(さちぎみ)(1820から40)が婚礼の行列を調えて、京より江戸へ下向する様子が描写されています。福君は17歳で、天保7年(1836)に斉温(なりはる)に嫁ぎました。盛大であったその行列は、当時木版に摺られて売り出され、はやり唄に唄われるほど評判となりました。両家の家格の高さを反映して、華美を尽した道具立てと712人からなる供揃えには、目を見張ります。

江戸時代 19世紀

徳川義直遺訓 徳川光友宛 二巻の内
(とくがわよしなおいくん とくがわみつともあて)

徳川義直遺訓 徳川光友宛 二巻の内

 初代義直は慶安3年(1650)5月7日に、江戸麴町(こうじまち)屋敷で51歳で歿しました。死の前年に再起不能を悟った義直は、翌年2月12日に嗣子光友と重臣に宛てて二通の遺言を認(したた)めました。本品は光友宛ての一通で、江戸の将軍に忠誠を尽くし、武の道を忘れてはいけない、家臣を大切にし、また家臣の振る舞いに注目すべきことなどをあげ、最後に、自身の才能におごり、他人をさげすまないようにと記しています。このほか家臣宛ての一通では、嗣子光友を守り立てることを命じています。

江戸時代 慶安3年(1650)

千代田之御表 日光御社参図 三枚続 楊洲周延画
(ちよだのおんおもて にっこうごしゃさんず)

千代田之御表 日光御社参図 三枚続 楊洲周延画

 日光社参は、将軍が日光東照宮に参詣する儀式で、将軍家主催の行事として盛大に行われました。日光社参は毎年の行事ではなく、「御神忌(ごしんき)」と呼んで江戸時代を通じて十数回行われた盛儀でした。江戸滞在の大名は将軍の行事に参加する義務があったため、尾張家も御三家の一員として、将軍に従って日光に赴きました。本品には、最高の礼服である束帯(そくたい)を身に着けた将軍が拝礼を済ませ、神前から退出する姿が表されています。

明治30年(1897)


「東海道五十三次之内 箱根 湖水図」「同 庄野 白雨」 「東海道五十三次之内 箱根 湖水図」
「同 庄野 白雨」

2022年4月10日(日曜日)から5月22日(日曜日)
<終了しました>

春季特別展
「広重の旅風景 雨・雪そして人」

会場
蓬左文庫展示室
 徳川美術館本館展示室
 風景画の名手歌川広重の代表作である保永堂版「東海道五十三次之内」全55図に、各種東海道絵や各地の名所絵を加えて紹介します。卓越した脚色の技が活かされた広重の風景画をお楽しみください。

展示の詳細案内

 江戸時代後期、浮世絵の風景版画が流行し、人気を博すようになりました。幕末の尾張藩主のコレクションにも、少なからず風景版画が含まれています。今回は、当時も今も多くの人に愛される風景画の名手歌川広重(うたがわひろしげ)の風景版画を紹介します。代表作で最も有名な保永堂版(ほえいどうばん)「東海道五拾三次之内」全55図に加え、行書版、隷書(れいしょ)版、竪絵(たてえ)東海道などの各種東海道絵や、広重のもうひとつの代表的街道絵である「木曽海道六拾九次之内」から作品を紹介します。また、江戸や近江などの名所絵もあわせて紹介し、広重の風景画の世界を堪能いただきます。

東海道五拾三次之内 箱根 湖水図(保永堂版)
とうかいどうごじゅうさんつぎのうち はこね こすいず(ほえいどうばん)

東海道五拾三次之内 箱根 湖水図(保永堂版)

 現代では箱根駅伝で有名ですが、箱根の険しい山道は東海道随一の難所でした。広重は、その険しさを色とりどりの岩を積み重ねてモザイクのように表現しました。その山間の峠道を、芦ノ湖越しに富士を遠望しながら大名行列の一行は進みます。

江戸時代
天保3年から4年(1832から33)頃
横大判
個人蔵

東海道五拾三次之内 庄野 白雨(保永堂版)
とうかいどうごじゅうさんつぎのうち しょうの はくう(ほえいどうばん)

東海道五拾三次之内 庄野 白雨(保永堂版)

 「白雨」とはにわか雨のことです。風にあおられた竹藪はシルエットで表されています。その竹藪と坂道、そして雨脚の線が不安定な三角形を作り出し、雨の突然さと人々の急ぎ慌てる心理とが共鳴します。顔を隠した人々の気持ちは見る人の想像に任され、鑑賞が深まっていきます。

江戸時代
天保3年から4年(1832から33)頃
横大判
個人蔵

東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景(保永堂版)
とうかいどうごじゅうさんつぎのうち にほんばし あさのけい
(ほえいどうばん)

東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景(保永堂版)

 東海道の出発点。まだ明けやらぬ空の下、大名行列の旅の一行の姿が見えます。手前には、仕入れをすませたばかりの魚屋や八百屋の姿も見えます。時間帯としての一日の始まり、緊張感ただよう非日常の旅の始まり、魚屋たちの普段通りの日常の始まりと、三つの始まりの取り合わせが実に巧みです。

江戸時代
天保3年から4年(1832から33)頃
横大判
個人蔵

東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪(保永堂版)
とうかいどうごじゅうさんつぎのうち かんばら よるのゆき
(ほえいどうばん)

東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪(保永堂版)

 富士川を渡って駿河湾沿いの街道を行くと蒲原の宿場があります。ごく普通の街ですが、雪の夜という設定によって忘れられぬ場所となっています。人々は皆、うつむきがちに歩き、色のみならず、音までも、すべてが雪の中に消し込まれ、静かな雪の夜です。

江戸時代
天保3年から4年(1832から33)頃
横大判
個人蔵

東都名所 日本橋之白雨
とうとめいしょ にほんばしのはくう

東都名所 日本橋之白雨

 雨の日本橋。雨粒はまばらで、「白雨」つまりにわか雨の降り始めのようです。天候の変化を絶妙に描き出した広重の感覚がここでも光ります。本図は保永堂版東海道とほぼ同時期の作で、雨を描く手腕が早くから確かなものであったことがわかります。

江戸時代
天保3年から10年(1832から39)頃
横大判
個人蔵

近江八景之内 唐崎夜雨
おうみはっけいのうち からさきやう

近江八景之内 唐崎夜雨

 唐崎神社の夜の景。激しく降りしきる雨の音だけが聞こえます。大きさと美しい姿で名高い唐崎の松がシルエットで表されています。本図の含まれる「近江八景之内」は広重40歳頃の作で、広重の数ある同名の揃物でも特に評価が高い作品です。

江戸時代
天保5年(1834)
横大判
個人蔵

東海道五十三次 九 大磯(隷書版東海道)
とうかいどうごじゅうさんつぎ きゅう おおいそ
(れいしょばんとうかいどう)

東海道五十三次 九 大磯(隷書版東海道)

 画面右上の矩形に「鴫立沢西行庵(しぎたつさわさいぎょうあん)」とあります。西行法師がこの地で「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕ぐれ」と詠んだことにちなんで建てられた茶屋です。水鳥の遊ぶ海上を見る女性二人と宗匠風の男。色彩の調和が美しく、構図も決まっており、隷書版中の秀作として知られます。

江戸時代
嘉永2年(1849)
横大判
個人蔵

木曽海道六拾九次之内 宮ノ越
きそかいどうろくじゅうきゅうつぎのうち みやのこし

木曽海道六拾九次之内 宮ノ越

 背景のすべてが輪郭線を持たないシルエットで描かれ、月の光の逆光さえ感じさせます。山国独特の深い霧を表したものと思われ、木々はその輪郭さえ曖昧で、靄に包まれた遠方の人影も消え入りそうです。手前の親子は徳音寺(とくおんじ)の秋祭からの帰りか、幼子は父親の背中で眠り、赤ん坊は母親に抱かれています。

江戸時代
天保7年から9年(1836から38)頃
横大判
個人蔵

五十三次名所図会 丗九 岡崎 矢はき川やはきのはし(竪絵東海道)
ごじゅうさんつぎめいしょずえ さんじゅうきゅう おかざき
やはぎがわやはきのはし(たてえとうかいどう)

五十三次名所図会 丗九 岡崎 矢はき川やはきのはし(竪絵東海道)

 矢作橋は東海道一の長さを誇り、豊橋の吉田大橋、大津の瀬田唐橋と並び、東海道三大橋といわれました。竪長画面で高さが強調され、川辺から橋の上を仰ぎ見るようにまとめ、覆い被さってくるような高さを存分に表現しています。

江戸時代
安政2年(1855)
大判
個人蔵

名所江戸百景 隅田川 水神の杜真崎
めいしょえどひゃっけい すみだがわ すいじんのもりまさき

名所江戸百景 隅田川 水神の杜真崎

 画面を縁取るかのように描かれた満開の八重桜が印象的です。隅田川越しに筑波山までを望みます。手前の松の木のあるあたりが隅田川の水の神を祀った水神の森で、対岸が真崎です。「名所江戸百景」は 目録1枚を含む全120枚におよぶ大作で、広重最晩年の傑作です。

江戸時代
安政3年(1856)
大判
個人蔵


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