重美 華洛四季遊戯図巻(上巻部分)
詞書 高橋宗直筆・絵 円山応挙筆
2022年2月5日(土曜日)から4月3日(日曜日)
<終了しました>
企画展
年中行事の今と昔
- ■会場
- 蓬左文庫展示室
- 日本の年中行事には現在にも息づく行事もあれば、今では失われてしまった行事もあります。江戸時代の版本や絵画などを中心に、年中行事の変容をたどります。
展示の詳細案内
毎年、特定の時期に繰り返し行われる年中行事は、公家や武家から町民に至る幅広い人々によって受け継がれてきました。それらは、上巳(じょうし)の節供に行われる雛まつりなど、現在の我々の文化として息づく行事もあれば、今では我々の生活から縁遠くなってしまった行事、あるいは失われた行事もあります。
江戸時代の版本や絵画などを中心に、人々の暮らしを彩ってきたかつての行事の姿と現在との違いを探ります。
十二ヶ月図屏風 右隻
(じゅうにかげつずびょうぶ うせき)
公家や庶民の間で行われた12ヶ月の年中行事が右から順に描かれています。年中行事は平安時代より絵画で描かれ、本図のように12ヶ月の各行事を描く月次行事絵(つきなみぎょうじえ)の他、各季節の行事を描く四季の行事絵、春・冬や春・秋など、ふたつの季節の行事を対で描く行事絵などが盛んに描かれました。
作者の田中訥言(たなかとつげん)(1767から1823)は尾張に生まれた絵師で、宮廷絵師の土佐派(とさは)に学び、王朝時代の行事や儀礼を主題とした絵画も多く手がけました。
重要美術品
田中訥言筆
岡谷家寄贈
江戸時代 19世紀
展示期間:2月5日から3月4日
華洛四季遊戯図巻 上巻
(からく しきゆうぎずかん じょうかん)
春は嵐山の花見、夏は賀茂川(かもがわ)の夕涼み(上巻・前期展示)、秋は盂蘭盆(うらぼん)の踊り、冬は師走(しわす)(12月)のにぎわい(下巻・後期展示)と、京都の四季と様々な行事が描かれています。
本絵巻を描いた円山応挙(まるやまおうきょ)(1733から95)は京都で活躍した絵師です。詞書は当時歌人として、また古典学者として著名な高橋宗直(むねなお)(1703から85)が記しました。
重要美術品
二巻の内 上巻(2月5日から3月4日) 下巻(3月5日から4月3日)
詞書 高橋宗直筆・絵 円山応挙筆
江戸時代 18世紀
六美新図 (ろくびしんず)
六人の美人が桜・杜若(かきつばた)・女郎花(おみなえし)・菊・白梅と四季折々の草花と共に描かれ、一部は年中行事を表しています。菊花を背景にした女性は元服(げんぷく)(成人した)後の武家女性とみられ、手にした盃(さかずき)には菊酒が注がれているのでしょう。9月9日の重陽(ちょうよう)の節供は、菊酒を飲んだり、菊の露で湿らせた綿で体を拭いて清めたりして、長寿を願う行事です。菊には、菊の露を飲むと不老長寿になるという中国の伝説がありました。
歌川国貞筆
江戸時代 天保12年(1841)
会期中頁替え
葵紋付左義長羽子板
(あおいもんつきさぎちょうはごいた)
表面には宮中に見立てた屋敷内の様子が、裏面には左義長の様子が描かれています。左義長とは地域によっては「どんど焼き」などとも呼ばれ、正月14日または15日に、長い青竹を3、4本組み、そこに正月の松飾(まつかざり)を集めて焚き上げる行事です。室町時代の宮中では天皇の書初(かきぞ)めを焼いたため、それが民間にも広がり、書初めを焼いた灰が高く上がれば書が上達するといわれていました。また、餅や団子を焼いて無病息災を願う地域もあります。
二枚
江戸時代 19世紀
徳川直七郎(斉温)節供旗飾図
(とくがわなおしちろう(なりはる)せっくはたかざりず)
直七郎とは、11代将軍家斉(いえなり)の第19男で、尾張家11代となった斉温(なりはる)の幼名です。本図には文政8年(1825)5月に尾張家の養子になって初めて行われた斉温7歳の節供が描かれています。白地に葵紋の旗二流(る)は尾張家10代斉朝(なりとも)から贈られた旗で、その他、斉温が尾張家に入る以前に江戸城本丸で飾っていた旗・吹流(ふきながし)・長刀(なぎなた)などが続きます。尾張家では、当主の嗣子(しし)(跡継ぎ)の初節供にあたる年には、屋外に幕を張り、旗、幟(のぼり)や吹流を立て、小屋に兜を並べました。
江戸時代 文政8年(1825)
展示期間:2月5日から3月4日
蓬菖蒲粽図目貫
(よもぎしょうぶちまきずめぬき)
太刀や刀などの拵(こしらえ)を華やかに装飾するため、様々なデザインの刀装具が付けられました。本品のように菖蒲や粽(ちまき)など、端午の節供にちなんだ刀装具もあります。端午に粽を食べる習慣は、水中に身を投げた中国・春秋戦国時代(紀元前770から紀元前221)の政治家で詩人でもあった屈原(くつげん)の霊を弔うため、竹筒に米を入れ楝(おうち)の葉で蓋をしたものを水中に投げたことが起源といわれています。
江戸時代 18から19世紀
富嶽百景 初編
(ふがくひゃっけい しょへん)
葛飾北斎が描く「七夕の不二(富士)」です(写真右ページ)。町中に立てられた笹が、富士よりも高く描かれています。江戸時代になると梶の葉の代わりに短冊に様々な願いを描き、笹や竹に吊るすことが主流になります。笹や竹は、冬でも枯れることなく緑を保つ植物として神聖視され、霊の依代(よりしろ)として神事に使用されました。年中行事でも、正月の門松(かどまつ)、左義長(さぎちょう)の三本の竹の柱、七夕の笹飾り、年末の煤払(すすはら)いの清竹など、様々な行事でみることができます。
葛飾北斎画
江戸時代 天保5から6年(1834から1835)
名古屋市蓬左文庫蔵
菊折枝蒔絵角盥
(きくおりえだまきえつのだらい)
半球形の盥に四本の角状の手が付くことから角盥と呼ばれ、うがいや手洗いなどに用いられました。七夕では、盥に水を張り梶の葉を浮かべ、そこに牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)の二星を映して、無事に再会できることを願いました。
俊恭院福君(尾張家11代斉温継室)所用
江戸時代 19世紀
菊蒔絵香盆
(きくまきえこうぼん)
不老長寿の菊は、工芸でも吉祥のデザインとして多くの道具に取り込まれました。本品にも野辺に咲く菊が金蒔絵で表されていますが、よく見ると銀の鋲(びょう)が所々に打たれています。これは飲むと不老長寿になるとされた菊の露を表わしています。
江戸時代 17世紀
歌川広重
木曽海道六十九次之内 上ヶ松
2022年1月4日(火曜日)から1月30日(日曜日)
<終了しました>
企画展
浮世絵で旅気分
- ■会場
- 蓬左文庫展示室
- 幕末に浮世絵をいろどった北斎や広重の浮世絵風景版画を紹介します。尾張家13代・幼君徳川慶臧(よしつぐ)の墓の副葬品であった風景版画も紹介し、浮世絵師が何を伝えたかったのかを探ります。
展示の詳細案内
江戸時代中頃から、全国の地誌への関心の高まりを受けて、旅行文芸書や、写実的な絵付きの解説書である名所図会が刊行されるようになり、さらにカラフルな1枚刷りの風景版画が盛んに刊行されるようになりました。
風景版画の立役者であった歌川広重(1796から1858)は、保永堂から出版した「東海道五拾三次之内」が大人気を博し、風景画の第一人者に躍り出ました。その作品群は、図によって天候を変えたり時間帯を変え、そこに登場する人々も状況に応じて描き分けられる点に大きな特色があります。
本展では、旅に出かけた気分を生み出すための工夫に注目し、当時の人々が作品に感じたであろう旅の気分を追体験してみようと思います。
東海道綱目分間之図
(とうかいどうこうもくぶんげんのず)
測量家の遠近道印(おちこちどういん・1628から?)が作成し、浮世絵師の菱川師宣(ひしかわもろのぶ・1618?から94)が作画を担当した東海道の道中図です。縮尺は1万2千分の1で、東海道全体をおさめています。鑑賞用というよりも、記録として正確に表すことがねらいです。
遠近道印著 菱川師宣画 5帖のうち
江戸時代 元禄3年(1690)
名古屋市博物館蔵
東海道五拾三次之内
(とうかいどうごじゅうさんつぎのうち)
池鯉鮒 首夏馬市(保永堂版)
(ちりゅう しゅかうまいち(ほえいどうばん))
保永堂版「東海道五拾三次之内」は、広重の代表作で、風景版画の頂点に立つ作品のひとつです。北斎の富嶽三十六景の成功にならい、版元保永堂竹内孫八が広重を登用して出版しました。53の宿場に、始点(日本橋)と終点(京都)を加えた全部で全55枚のセットです。この図は、かつて知立(ちりゅう)で首夏(旧暦4月)に10日ほど開かれていた馬市をすがすがしく描く名作です。保永堂版東海道の他のいくつかの図と同様に、『東海道名所図会』から着想を得たようですが、歌川広重という個性のフィルターを通すと、全く別の世界が広がります。
歌川広重画
江戸時代 天保3年(1832)頃
知立市歴史民俗資料館蔵
東海道五拾三次之内
(とうかいどうごじゅうさんつぎのうち)
日本橋 朝之景(保永堂版)
(にほんばし あさのけい(ほえいどうばん))
東海道の出発点。まだ明けやらぬ空の下、大名行列の旅の一行の姿が見えてきます。午前4時頃に開かれた木戸を通って、西に向かいます。手前には、魚河岸(うおがし)で仕入れを終えた魚屋たちの姿が見えます。新しい一日の始まり、緊張感ただよう非日常の旅の始まり、そして魚屋たちの普段通りの日常の始まりと、三つの「始まり」の取り合わせとコントラストは絶妙です。
歌川広重画
江戸時代 天保3年(1832)頃
名古屋市博物館蔵
木曽海道六拾九次之内 洗馬
(きそかいどうろくじゅうきゅうつぎのうち せば)
のぼりかかった満月を柳越しに見ながら、船頭が船を操ります。広重の代表作のひとつに数えられています。色をいくつも重ねた空の表現は秀逸であり、まるで映画のラストシーンのような感傷的な光景です。
画面の変色は、14歳で亡くなった尾張家13代慶臧(よしつぐ・1836から49)の墓所から副葬品として長い間地中にあったためです。500枚以上におよぶ幼君遺愛の作品群は、大名の浮世絵享受を物語る何よりの資料であることは間違いありません。本展で出品する「木曽海道六拾九次之内」の作品はすべてそれに該当します。
歌川広重画
江戸時代 天保6から8年(1835から37)頃
徳川美術館蔵
東海道五拾三次之内
(とうかいどうごじゅうさんつぎのうち)
土山 春之雨(保永堂版)
(つちやま はるのあめ(ほえいどうばん))
土山は鈴鹿峠を越えた山間の宿場で、多雨の地域として有名です。「春之雨」とあり、梅雨時の長雨のせいで川は増水し、流れを速めています。見どころはうつむきながら歩を進める旅の一行の姿です。背中の描写から、行列の人たちの足取りの重さや心の中が想像できます。
歌川広重画
江戸時代 天保3年(1832)頃
名古屋市博物館蔵
東海道五拾三次之内
(とうかいどうごじゅうさんつぎのうち)
御油 旅人留女(保永堂版)
(ごゆ たびびととめおんな(ほえいどうばん))
手をつかまえ、あるいは首を引っ張り客を引く女たち。右端の宿屋には客が今到着したところです。客人の背後には、絵師・彫師・摺師さらに版元の名までが記されています。
歌川広重画
江戸時代 天保3年(1832)頃
名古屋市博物館蔵
木曽海道六拾九次之内 上ヶ松
(きそかいどうろくじゅうきゅうつぎのうち あげまつ)
「木曽海道六拾九次之内」は保永堂版東海道とならぶ、広重の街道絵の代表的シリーズです。江戸から、大宮、高崎、軽井沢、諏訪から木曽路を経て岐阜へ、そして関ヶ原から大津へと向かう中山道の各宿に取材しています。木曽福島の南、上松の宿の南にあるのが名瀑小野の滝です。橋の上から滝を眺める二人の旅人と、滝に無関心に柴を担いで通り過ぎる土地の人が描き分けられています。本品も尾張家13代慶臧(よしつぐ)の墓所におさめられていた副葬品です。
歌川広重画
江戸時代 天保6から8年(1835から37)頃
徳川美術館蔵
重文 遠浦帰帆図 玉澗筆 名物
2021年11月13日(土曜日)から12月12日(日曜日)
<終了しました>
企画展
唐絵(からえ)-尾張徳川家の中国絵画-
- ■会場
- 蓬左文庫展示室
- 「東山御物」をはじめとする尾張徳川家伝来の中国絵画を初めて全点公開し、大名家の筆頭であった同家における中国絵画受容の様相に迫ります。
展示の詳細案内
尾張徳川家では、室町将軍家に蔵されたと伝えられる名品「東山御物」を中核として、多くの中国絵画を収集してきました。尾張徳川家の350年余りの長い歴史の中で、散逸してしまった作品も少なくありませんが、幸いに収蔵品の来歴等を記録した蔵帳が多数伝存しており、尾張徳川家を離れた作品も含めその収集の実態をたどることができます。
本展では、東山御物をはじめとする尾張徳川家伝来の中国絵画を蔵帳とともに初めて全点公開し、大名家の筆頭であった同家における中国絵画受容の様相に迫ります。
駿府御分物之内 色々御道具帳
(すんぷおわけもののうち いろいろおどうぐちょう) 十一冊の内
徳川家康(1543から1616)の九男である尾張家初代義直(1600から1650)へ分与された、家康の遺品「駿府御分物」の目録の内の一冊です。尾張家に伝存するの最も古い道具帳です。
本帳には、掛物(掛軸)が23点記録されており、その内、現在徳川美術館に伝わっている唐絵は、玉澗筆「遠浦帰帆図」の1点のみです。
江戸時代 元和4年(1618)
君台観左右帳記 繪之筆者上中下
(くんだいかんそうちょうき えのひっしゃじょうちゅうげ)
(「小河御所幷東山殿御餝図」) 伝相阿弥編
(おがわごしょならびにひがしやまどのおかざりず でんそうあみへん)
本品は、室町幕府八代将軍足利義政(よしまさ・1436から1490)の御所である小川殿と東山殿の座敷飾りに関する記述と図、中国の美術工芸品に関する知識の手控えで構成された、室町時代の御殿飾りの規式書、いわゆる「君台観左右帳記」の一つです。同様の伝本が多数存在しますが、特に本品は、尾張家の唐絵収集において参照されたと推測されます。
この中の宋元時代を主とする中国画家目録「繪之筆者上中下」は、室町時代以降の日本において、唐絵の評価の第一基準となりました。元時代に編まれた『圖繪寶鑑(とかいほうかん)』などが参照されているものの、評価を上中下に分類し、中国の画史に見られない画家の名が含まれるなど、日本独自の評価が反映されています。
江戸時代 17世紀
瀟湘八景 遠浦帰帆図 玉澗筆・同賛
(しょうしょうはっけい えんぽきはんず ぎょくかんひつ・どうさん)
室町将軍家の蔵した美術工芸品「東山御物(ひがしやまごもつ)」を代表する一幅です。もとは巻物でしたが、室町将軍家において分割され掛物に改装されました。秋の夕暮れの西陽が包み込む湖畔の様が描かれています。玉澗(生歿年未詳)は南宋時代末期から元時代初期に活躍した画僧で、日本では牧谿(もっけい)とならび室町時代以降高い人気を誇りました。本品は室町将軍家を出たのち東国を転々とし、その後、豊臣秀吉の手に渡りました。慶長3年(1598)7月、死期を悟った秀吉が諸大名らへ遺品分けを行った際、本品が家康に譲られ、その後、家康から尾張家初代義直へ遺品として譲られました。
南宋時代 13世紀
重要文化財 名物
布袋図・朝陽・対月図 三幅対
(ほていず ちょうよう たいげつず さんぷくつい)
布袋図: 伝胡直夫筆・偃谿廣聞賛 (でんこちょくふひつ えんけいこうもんさん)
朝陽・対月図: 伝牧谿筆(無住子筆)・同賛
(でんもっけいひつむじゅうしひつ どうさん)
室町幕府三代将軍足利義満(よしみつ・1358から1408)の旧蔵品です。中幅の「布袋図」は、宋時代に禅林を中心に流行した、淡墨の略筆による消え入るような水墨画「罔両画(もうりょうが)」の代表作で、袋にもたれうたた寝する童子を布袋が起こす様を描いています。筆者とされる胡直夫は「繪之筆者上中下」で「上」に列されるものの伝歴は未詳であり、日本では罔両画の筆者にあてがわれてきました。左右幅の「朝陽・対月図」は、人物が陽光の中で糸を紡ぐ様と月光の下で経を読む様で、賛から無住子なる人物の画賛と知られるが、江戸時代には牧谿の筆と伝えられていました。
(布袋図)南宋時代 13世紀
(朝陽・対月図)元時代 元貞元年(1295) 重要文化財 名物
(展示期間:2021年11月30日から12月12日)
龍図(りゅうず) 二副対の内 伝陳容筆(でんちんようひつ)
本作の伝承筆者である陳容は、南宋時代末期の文人で潑墨(はつぼく)や吹き墨を得意とし、宝祐年間(1253から1258)には龍描きの名手として知られていました。本幅は風雨を司る龍がまとう雲煙が表現されており、陳容の龍図の迫力を伝えています。家康と初代義直の遺品を確認するために作られた享保6年(1721)の道具帳に、「権現様御譲」と書き添えられており、家康から義直に譲られたことがわかります。
元-明時代あるいは高麗-朝鮮時代
14-15世紀 重要文化財
ただし、対の虎図は2021年11月13日から11月28日のみの展示となります。
花鳥図 伝周之冕筆(かちょうず でんしゅうしべんひつ)
明時代の蘇州呉県(江蘇省)の花鳥画家・周之冕(生歿年未詳)の筆と伝わる花鳥画です。
本幅は、断崖から垂れ下がる梅樹にとまる五羽の雀、渓流の脇に鴛鴦(おしどり)と水仙・椿が描かれています。枝の表現に用いられた没骨法(もっこつほう)は周之冕作品にも見られますが、本幅は筆致が劣り、模倣作と見られます。懸崖(けんがい)と樹花・鳥禽・渓流を主要なモチーフとした構図には、明時代の花鳥画家・呂紀(りょき)からの影響がうかがえます。
箱の蓋裏には「寛政十一未年」(1799)と墨書があり、尾張家に収蔵された時期がわかります。
明時代 16-17世紀
(展示期間:2021年11月30日から12月12日)
許由巣父図 呉偉筆(きょゆうそうほず ごいひつ)
筆者の呉偉(1459から1508)は、明時代の浙派(せっぱ)を代表する宮廷画家です。本幅は、帝堯(ぎょう)からその高徳を認められて天子の位を譲られるも固辞し、汚い話を聞いたとして川の水で耳を洗った許由と、そこへ牛に水を与えるために通りかかり、許由の耳を洗う理由を聞くと、汚れた水を牛に飲ませるわけにはいかないとその場を去った巣父を題材にしています。二人の野卑(やひ)とも言える顔貌には、山林で徳を磨き世俗を超越した隠士の気高さがうかがえます。
明時代 15-16世紀
(展示期間:2021年11月13日から11月28日)
満畦生意図 陳佑筆(まんけいせいいず ちんゆうひつ)
筆者の陳佑は未詳の画家で、現存作品が本幅含む二点のみであることから、貴重な作品です。本幅には、題として「満畦生意」と記され、畑の畦(うね)に白菜や大根・蕪(かぶら)といった野菜が瑞々しく育つ様が描かれています。同様の画題に関連する語句からは、中国の古い説話にある処世訓が連想されます。
明時代 15世紀
花鳥図屏風(かちょうずびょうぶ) 六曲一双の内 右隻(部分)
孫億筆(そんおくひつ)
吉祥性の高い花鳥画を得意とした孫億(1638から歿年未詳)は、康煕年間(1662から1722)後半に福州(福建省)で活躍した画家です。孫億の花鳥画は、18世紀前半ばから琉球・島津家を介して日本に舶来し、珍重されていました。今回、本品が尾張家9代宗睦(むねちか)の嫡子・治行(はるゆき)の正室であった聖聡院従姫(1757から1804)の所用品で、徳川将軍家から贈られていたことが判明しました。
清時代 康煕45年(1706)
(前期後期で左右隻の入替
※右隻から左隻への入替となります。)
中色縮緬地御所解文小袖矩姫(尾張家14代慶勝正室)着用
2021年9月18日(土曜日)から11月7日(日曜日)
<終了しました>
秋季特別展
尾張姫君ものがたり
- ■会場
- 蓬左文庫展示室 徳川美術館本館展示室
- 将軍家をはじめ名家から嫁ぎ、御三家筆頭の尾張徳川家の歴代藩主を陰で支えた女性たち。正室や側室・娘たちゆかりの品々を展示し、その生涯を紐解きます。
展示の詳細案内
結婚が家と家との結びつきを意味した江戸時代、御三家筆頭の尾張徳川家では、将軍家をはじめ徳川一門、公家や諸大名から歴代藩主の正室を迎えました。また、世継ぎを絶やさないため側室となった女性のなかには、藩主生母となり、正室に次ぐ地位を得る者もいました。
本展では、尾張徳川家の歴代藩主を陰で支えた正室や側室、娘たちゆかりの品々を展示し、その生涯を紐解きます。
相応院画像(そうおういんがぞう) 徳川義直画賛
お亀は文禄2年(1593)に家康の側室となり、仙千代(せんちよ・早世)と義直(1600-1650)を産みました。8歳で尾張国主となった義直に代わり、尾張家臣へ家康の命を伝える一方、家康への取次役も担い、また義直の異父兄である竹腰正信(のちの尾張家付家老)などの血縁者が側近となるよう働きかけました。
寛永19年に母が亡くなると、翌年、義直は尾張に宝亀山相応寺(現・名古屋市東区)を建立しその菩提を弔いました。本図は、初代義直自筆(画・賛とも)の晩年のお亀の姿です。息子が描いたお亀の姿はふくよかで気丈夫らしい人物像を伝えています。
同じく義直が描いた「相応院画像」(相応寺蔵)がもう一幅あり、後期(10月19日から11月7日)に展示されます。
江戸時代 寛永20年(1643)
相応寺蔵 展示期間:2021年9月18日から10月17日
箏 銘 小町(そう めい こまち)
尾張家初代義直の正室・春姫所用の箏です。春姫は、紀伊和歌山初代となった浅野幸長(よしなが)と池田恒興(つねおき)の娘との間に慶長7年(慶長8年とも)に生まれ、家康の婚姻政策により、慶長8年に当時4歳の義直と縁組し、同20年4月、大坂夏の陣の直前に名古屋城本丸御殿で婚儀が行われました。
春姫はよく箏をたしなんだといい、愛用の箏は小野小町の遺品とする記録もありましたが、大正年間の修理の際に甲裏に文字が発見され、肥前の大名有馬貴純(ありまたかずみ・生年未詳から1494)が娘の稽古用に作らせたと判明しました。
春姫所用
武蔵野蒔絵貝桶・合貝(むさしのまきえかいおけ・あわせがい)
お亀の所用と伝えられる本品は、貝桶の蓋裏の書付に、息子の初代義直と側室おさい、その娘京姫、義直の異父兄竹腰正信の妻松仙院が合貝の絵を描いたとあります。
東福門院の侍女であったおさいは、犬山城主津田信清(のぶきよ)の孫にあたり、父の津田信益(のぶます)は織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将です。元和10年(1624)に2代将軍秀忠の命で、当時世継ぎのなかった義直の側室となりました。寛永3年(1626)に長女京姫を産み、名古屋城二之丸を住まいとしたことから「二之丸様」とも呼ばれました。正室の春姫が病歿した後、江戸に下向し、義直の事実上の継室として扱われました。
合貝:徳川義直・おさいほか筆 お亀所用
江戸時代 17世紀
初音蒔絵鏡台(はつねまきえきょうだい)
「初音の調度」は、尾張徳川家2代光友(みつとも)の正室・千代姫が持参した婚礼調度です。千代姫は寛永14年(1637)年、3代将軍徳川家光の第一子として江戸城で誕生し、数え年3歳で光友に嫁いでから62歳で歿するまで、生涯「姫君様」と呼ばれました。誕生から3年の歳月をかけて完成した婚礼調度は『源氏物語』の「初音」や「胡蝶」の帖を題材にした豪華絢爛な調度で、「初音の調度」と総称されます。「初音蒔絵調度」47件、「胡蝶蒔絵調度」10件に加え、染織品・工芸品を併せた総計70件が現存し、一括で国宝に指定されています。
国宝 千代姫所用
江戸時代 寛永16年(1639)
純金香盆飾り(じゅんきんこうぼんかざり)
香木を炷(た)くための諸道具一式で、香盆の器胎に木が用いられている他は全て純金製です。盆には狩野派風の山水図と花鳥図が精緻に打ち出されています。
千代姫の金の道具は、本品を含めて茶道具11点・香道具10点・調度品6点の合計34点が現存しています。名古屋城に関する史料集成『金城温古録(きんじょうおんころく)』によると、千代姫の金銀の道具類は名古屋城内に「およそ千種」あったといわれています。
重要文化財 千代姫所用
江戸時代 寛永16年(1639)
巴紋蒔絵挟箱(ともえもんまきえはさみばこ)
尾張家2代光友側室・勘解由小路(かでのこうじ)の遺愛品として性高院(しょうこういん/現・名古屋市千種区)に伝えられた挟箱です。実家である樋口家の家紋が釣り巴紋であるためか、すべてに巴紋が付けられています。挟箱は近世の武家の旅行道具で、衣服や身の回りの品を納め、棒を通して従者に担がせました。
勘解由小路は、公家で参議の樋口信孝(ひぐちのぶたか)の娘として京都に生まれ、7歳で初代義直の側室おさいに仕え、その後、2代光友の側室になったとみられます。慶安4年(1651)に産んだ義昌(よしまさ)が後に分家の大久保松平家(梁川松平家)を創立すると、勘解由小路は生母として重きを置かれました。光友の最期を看取り、宝永2年(1705)に79歳で歿し、尾張家の菩提寺である性高院に葬られました。
勘解由小路所用
江戸時代 17世紀
性高院蔵
桜縁巴紋藤橘折枝散蒔絵乗物
(さくらぶちともえもんふじたちばなおりえだちらしまきえのりもの)
桜縁巴紋は尾張家3代綱誠の側室・和泉専用の紋です。和泉は、綱誠との間に三男をもうけ、正徳3年(1713)に12男の継友が6代当主となると、同5年には「御実母様」から「泉光院様」と呼称が改められ、藩主の生母として尾張家の一員の扱いを受けました。
乗物は所用者の身分によって仕様が区別されますが、朱漆塗は類例がありません。いずれにしても蒔絵で装飾された女乗物は、最上級とされたことから、藩主生母の地位が高かったことがわかります。
和泉所用
江戸時代 18世紀
建中寺蔵
菊折枝蒔絵厨子棚・黒棚・書棚飾り
(きくおりえだまきえずしだな・くろだな・しょだなかざり)
三棚飾りは婚礼調度を代表する調度です。本品は、福君(さちぎみ)の婚礼調度で、梨子地に菊の折枝を配し、近衛家の家紋である抱牡丹文と徳川家の葵紋を散らしています。
福君は公家の鷹司政煕(たかつかさまさひろ)の子として生まれ、文政12年(1829)に近衛基前(もとさき)の未亡人・維君(つなぎみ/尾張家9代宗睦養女)の養女となりました。11代斉温の継室として天保7年(1836)に婚儀を挙げましたが、そのわずか3年後に斉温が病歿し、福君は落髪して俊恭院と号しました。尾張に帰国して名古屋城三之丸御屋形で新生活を始めましたが、翌年、福君も21歳という若さでこの世を去り、建中寺に葬られました。
福君所用
江戸時代 18-19世紀
白綸子地鼓に藤・杜若文小袖
(しろりんずじつづみにふじ・かきつばたもんこそで)
尾張家14代慶勝の正室・矩姫の小袖です。矩姫は二本松丹羽家十代長富(ながとみ)の二女として、陸奥国二本松(現・福島県二本松市)に誕生しました。嘉永2年(1849)に、高須松平家の慶勝(よしかつ)に嫁ぎ、慶勝が尾張家14代の家督を継ぐと矩姫も江戸の市谷上屋敷に入りました。明治16年に慶勝が歿すると落髪し、貞徳院と号し、浅草瓦町邸で72歳の生涯を終えました。
本品は上から羽織ることから打掛(うちかけ)、また裾が長く、歩くときは裾や褄を手で引きあげるため、搔取(かいどり)とも呼ばれました。将軍家や尾張家では、光沢のある綸子の打掛を、旧暦9月9日より3月末までの冬季の正装としました。
矩姫着用
江戸時代 19世紀
展示期間:2021年10月19日から11月7日
中色縮緬地御所解文小袖(なかいろちりめんじごしょどきもんこそで)
縮緬の小袖は、正装の綸子(りんず)地の小袖に対して準正装とされました。本品は矩姫着用の小袖で、腰から上に『源氏物語』の「花宴(はなのえん)」、下に「賢木(さかき)」の情景があらわされています。古典文学や謡曲を暗示させるモチーフを取り入れた模様は、武家女性の小袖に典型的な意匠で、御所解文と呼ばれています。
矩姫着用
江戸時代 19世紀
展示期間:2021年9月18日から10月17日
東照大権現像 (部分)
伝狩野探幽筆
2021年7月17日(土曜日)から9月12日(日曜日)
<終了しました>
夏季特別展
家康から義直へ
- ■会場
- 蓬左文庫展示室 徳川美術館本館展示室
- 天下統一を果たした徳川家康と、泰平の世に尾張国統治を任された家康の息子義直。義直へと受け継がれた治世方針に焦点をあてながら、二人の生涯、そして義直の家康への想いを、遺品や史料などから読み解きます。
展示の詳細案内
戦国の世を生き抜き、天下統一を果たした家康。そして家康の九男として誕生し、泰平の世に尾張国の統治を任された義直。二人は親子でありながらも対照的な時代を生きました。家康から莫大な財産と蔵書を受け継いだ義直は、尾張藩の基礎を固め、名古屋を繁栄に導きました。
本展覧会では、家康から義直へと受け継がれた治世方針に焦点をあてながら、二人の生涯や治世、そして義直の家康への想いを、遺品や史料などを読み解きながらたどります。
長久手合戦図屏風(ながくてかっせんずびょうぶ)
天正12年(1584)4月9日に長久手(愛知県長久手市)で行われた徳川軍と森・池田軍(秀吉方)の合戦を描いています。画面中央上部には、山陰から現れた家康の金扇(きんせん)の馬標(うまじるし)、左寄りの場所では鉄炮で眉間を撃ち抜かれる森長可(もりながよし)、下部には討ち取られる池田恒興(つねおき)・元助(もとすけ)父子の姿がみられます。井伊直政(いいなおまさ)が具足を赤色に統一した「赤備え」として初めて臨み、大いに武功を挙げている様子も描かれています。
江戸時代 19世紀
展示期間:2021年7月17日から8月15日
徳川家康自筆書状 おかめ・あちゃ宛
(とくがわいえやすじひつしょじょう おかめ・あちゃあて)
家康が鷹狩に出ている間に、重病(疱瘡(ほうそう))にかかった義直を見舞うために家康が自筆で書いた手紙です。「義直の病状がますます快方に向かったとの由、めでたくも嬉しくも思います。疱瘡ではあっても軽症であると聞いて、安心もし、めでたくも思い、嬉しく思っている」といった内容です。
「あちゃ」(阿茶の局)は、飯田氏の娘で、駿河の今川氏の家臣神尾氏に嫁ぎ、離別後に家康に見出されて側室となりました。相応院と共に家康の深い寵愛を受け、家康歿後も長く権勢をふるいました。
江戸時代 慶長16年(1611)
豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ)
豊国祭礼は、豊臣秀吉七回忌を記念し、慶長9年(1604)8月に豊国神社(京都市東山区)で行われた祭礼です。祭礼は、家康の指示に基づいて板倉勝重・片桐且元・神龍院梵舜らによって準備が進められました。家康が介入したのは、豊臣家に忠誠心を持つ諸大名の信頼を得て、秀吉の功績を自らに取り込む狙いがあったと、当時の宣教師ジャン・クラッセは推測しています。
向かって右隻には豊国神社社頭における田楽猿楽の奉納、騎馬行列が、左隻には方広寺大仏殿を背景に、上京・下京の町衆が華美ないでたちで豊国踊に熱中するさまが描かれています。
岩佐又兵衛筆
江戸時代 17世紀 重要文化財
展示期間 右隻:2021年7月17日から8月15日、左隻:8月17日から9月12日
熊毛植黒糸威具足(くまげうえくろいとおどしぐそく)
桐製黒漆の大きな水牛の角を象った脇立(わきだて)が兜の両側に高く突き出し、全体に熊の毛皮を貼り付け、黒糸で威した家康の具足です。現在、徳川美術館には、家康所用の具足として本品と「花色日の丸威胴丸具足」の二領が残されています。しかし、江戸時代中期以降、「花色日の丸威胴丸具足」は豊臣秀吉の具足と認識されていたため、この具足は長らく唯一の家康所用具足として別格扱いで保管されてきました。
徳川家康着用
桃山から江戸時代 16から17世紀
銀溜白糸威具足
(ぎんだみしろいとおどしぐそく)
前立ての日輪の朱と小札(こざね)の銀、威糸(おどしいと)の萌黄(もえぎ)と白が調和した華麗な具足です。銀溜とは、銀粉を膠(にかわ)で溶いて塗る技法で、本品の場合は小札の表面に塗られています。義直は多数の具足を所持していましたが、中でも特にこの具足を好み、旅行の際には必ず携帯したと伝えられています。
徳川義直(尾張家初代)所用
江戸時代 17世紀
錐形兜(きりなりかぶと)
義直初陣の甲冑に附属する兜です。義直の初陣は慶長19年(1614)の大坂冬の陣で、父・家康と共に参戦しました。義直は翌20年の夏の陣にも出陣し、この兜を着けたと伝えられています。兜の後立(うしろだて)には山鳥の尾羽根がつけられています。当時、義直は15、6歳のため、一般の具足に比べて小振りに製作されています。一見すると簡素な兜にみえますが、兜の黒漆は蠟色塗(ろいろぬり)という黒漆の表面を研ぎ磨いて鏡のような光沢を出す手の込んだ技法で製作されており、天下人・家康の御曹司の初陣用ならではの具足といえます。
徳川義直(尾張家初代)所用
江戸時代 17世紀
脇指 無銘 貞宗 名物 物吉貞宗
(わきざし むめい さだむね めいぶつ ものよしさだむね)
貞宗は正宗の子または弟子と伝えられ、正宗の作風を受け継いだ名品を多く作刀しました。本品は家康の愛刀で、家康の歿後、側室で尾張家初代義直の母・お亀(相応院)は本品が義直に譲られるように力を尽くし、駿府御分物とは異なる手順で尾張家へともたらされました。
南北朝時代 14世紀
重要文化財
徳川家康三方ヶ原戦役画像
(とくがわいえやすみかたがはらせんえきがぞう)
三方ヶ原合戦での敗戦直後の姿を描いたとされてきた家康の画像ですが、史料的な根拠はありません。近年では、尾張家の蔵帳には「東照宮尊影」とあり、江戸時代から家康像として認識されていたことは確かで、目を見開いて歯を見せる忿怒の表情、片足を上げて顔を頬にあてる半跏思惟の姿から、家康を武神として祀る礼拝像であったと指摘されています。本図は尾張家九代宗睦(むねちか)の嫡子・治行(はるゆき)の正室・従姫(よりひめ)が、紀伊家から嫁いだ安永9年(1780)に尾張家へ持参した品です。
江戸時代 17世紀
展示期間:2021年7月17日から8月15日。
(8月17日からは模本)
聖像・牡丹蒔絵祠堂形厨子棚
(せいどう・ぼたんまきえしどうがたずしだな)
義直が名古屋城二之丸の庭園内に建てた聖堂に祀られていた儒教の聖像です。外見の模様や寸法などから五体が同時に製作されたと見られますが、帝堯(ていぎょう)像(右から2つ目)のみ純金製で、大久保長安より没収した道具であり家康より譲られたとの書付が添っています。他の四像は金銅製で、金鍍金(きんめっき)が厚く施されており、義直が帝堯像に倣って製作させたと考えられます。寛永6年(1629)、林羅山は名古屋城を訪れた際に聖堂を礼拝し、蒔絵の厨子に安置された「金像ノ堯舜禹周公孔子」を拝したと記録しており、本品がこれらに当たると考えられます。近世儒教興隆期の最初期の聖像として貴重で、義直は儒教図像の確立に大きな役割を果たしました。
江戸時代 17世紀
丸木橋図三所物
無銘 祐乗(後藤家初代) 名物
2021年6月5日(土曜日)から7月11日(日曜日)
<終了しました>
企画展
あかがね/くろがね
- ■会場
- 蓬左文庫展示室
- 銅(あかがね)・鉄(くろがね)という金属素材に着目し、武家の人々のこだわりがつまった作品を紹介するとともに、合金技術や各種加工技法にも迫ります。刀装具や茶道具など、実用性と装飾美を兼ね備えた多彩な輝きをお楽しみください。
展示の詳細案内
本展の主人公は一見地味な「銅(あかがね)」と「鉄(くろがね)」です。金属の中でも、派手で豪華な金・銀ではなく、銅と鉄という金属に着目して徳川美術館の所蔵品を眺めてみると、実用性と装飾美を兼ね備えた金属工芸品の創意工夫が見えてきます。それぞれの金属の性質を理解し、合金技術や鋳金・鍛金・彫金などの加工技術を用いながら、当時の人々は、さまざまな金属工芸品を生み出してきました。
本展ではこだわりが詰まった刀装具などの武具類をはじめ、尾張徳川家に伝えられてきた金属工芸品の数々を通して、銅と鉄の魅力に迫っていきます。
砂張釣舟花生(さはり つりぶね はないけ)
床の間あるいは書院床の天井から吊るして用いる花生です。銅に錫(すず)や鉛を加えた合金である砂張の板を叩いて打ち出し、舟型が作られています。
古田織部所持 岡谷家寄贈
東南アジア 16-17世紀
黄銅瓢形花生・夕顔蒔絵垂撥
(おうどう ひさごがた はないけ・ゆうがおまきえ すいはつ)
花生は黄銅の色味となめらかさで、瓢簞(ひょうたん)形の実のつるりとした質感があらわされています。後ろの夕顔蒔絵垂撥の葉や蔓(つる)は漆を用いた蒔絵(まきえ)で表現されています。それぞれの素材や技術の特徴を生かした立体と平面のコラボレーションです。
花生:金谷五郎三郎作 江戸時代 19世紀
垂撥:中村宗哲作 江戸時代 19世紀
天明真形釜(てんみょう しんなりがま)
釜の産地として有名な天明(現・栃木県佐野市)で製作された茶釜です。天明での茶釜作りの始まりは、河内国(現・大阪府松原市)の鋳物師(いもじ)が移住してきたことに由緒があると言われています。本品は真形の霰釜(あられがま)で、羽根の部分が朽ちかけているように作られています。
岡谷家寄贈 江戸時代 17世紀
龍文象嵌南蛮兜(りゅうもん ぞうがん なんばんかぶと)
鉄板を貼り合わせて作られた兜で、継目を極力減らしている点が特徴です。継目を減らすことで強度が増し、防御力が高まります。こうした継目の少ない南蛮胴具足は、桃山時代に西洋から輸入され、それを真似て作ったり、改造したりして日本で用いられました。
桃山-江戸時代 16-17世紀
太刀 銘 光忠(たち めい みつただ)
光忠は備前長船(びぜんおさふね)(現・岡山県瀬戸内市)の刀鍛冶です。備前長船という地は刀剣の材料である良質の砂鉄が採れ、川を利用した水運も利用でき、刀剣を作るために適した土地でした。雄大な太刀姿は武器であることを忘れ、ひとつの芸術作品として見入ってしまう迫力があります。
国宝 徳川綱吉(5代将軍)・徳川綱誠(尾張家3代)所持
鎌倉時代 13世紀
雪輪・四方剣透鉄鐔 号 残雪 名物
(ゆきわ・よほうけんすかしてつつば ごう ざんせつ)
金工作品では、金や銀を用いた華やかな作品が注目されがちですが、それに比べて本品は、鉄をくり抜いた、いたってシンプルで素朴な作品です。だからこそ、鉄独特の重みや硬さ、質感が伝わってきます。
豊臣秀頼・徳川家康・徳川吉通(尾張家4代)所用
室町時代 15世紀
黄地枝垂桜に尾長鳥文金襴長絹
2021年4月18日(日曜日)から5月30日(日曜日)
<終了しました>
企画展
うるわしき花と鳥
- ■会場
- 蓬左文庫展示室
- 古から人の心を潤してきた花と鳥。四季を表す指標として、また洗練されたデザインとして花と鳥を写し込んだ絵画や工芸品を紹介します。
展示の詳細案内
花と鳥は、その美しい姿や豊かな香り、快い鳴き声によって、古来、人の心を潤してきました。人はその美しさをさらに昇華させて、身近な絵画や工芸品の中に写し込みました。
季節と共に生を謳歌する花と鳥は、様々に組み合わせることにより四季を表現する指標となります。またその形態を抽象化させれば、洗練されたデザインとなります。一方、生物として自然科学の研究対象となり、図譜や動植物画など新しい美の世界が生み出されることもありました。
本展では、人の目を楽しませ、心を豊かにしてきた花と鳥を、絵画や工芸品を中心にご紹介します。
長生殿蒔絵手箱(ちょうせいでんまきえてばこ)
長生殿は中国・唐の都にあった宮殿です。平安時代の学者・慶滋保胤(よししげのやすたね)の詠んだ漢詩では、春秋の美観に満ちたすばらしさが賞賛されています。本品では梅・藤・橘・菊などの花が季節を超えて咲き乱れる理想郷として表現され、鶴・亀などのおめでたいモチーフも描かれています。
鎌倉時代 13-14世紀 重要文化財
松竹梅鶴・四季草花箔絵螺鈿謡本簞笥
(しょうちくばいつる・しきそうかはくえらでんうたいぼんだんす)
蓋表には、古代中国の神仙思想の理想郷・蓬萊(ほうらい)を思わせる松・竹・梅と鶴、箱の両側面・背面・天板には春から秋にかけて咲く花々の折枝(おりえだ)と蝶が表されています。花の折枝は、鳳凰(ほうおう)などの瑞鳥(ずいちょう)がくちばしにくわえてもたらす幸福の象徴です。本品は総じてパラダイスのイメージを彷彿させます。
江戸時代 17世紀 平戸松浦家伝来 岡谷家寄贈
四季花鳥図屏風(しきかちょうずびょうぶ) 六曲一双
パラダイス(理想郷・仙境・異界)を表現する要素として、古くから「四季を兼ね備える」ということがあります。金箔地に多種多様な花と鳥が描かれた本品では、右隻から左隻へと四季の様子が表されます。花と鳥はその美しさでパラダイスを荘厳するとともに、季節を象徴的に示す役割も担っています。
伝狩野山楽筆 江戸時代 17世紀
(展示期間:2021年4月18日から5月9日)
黄地枝垂桜に尾長鳥文金襴長絹
(きじしだれざくらにおながどりもんきんらんちょうけん)
綬帯鳥(じゅたいちょう)(尾長鳥)は、中国で尊ばれた瑞鳥(ずいちょう)で、「綬」と「寿」とが同じ音であることから、おめでたいモチーフとして好まれました。本品は能の衣装で、主に女役が舞装束として用います。舞うごとに黄金の光を放つ桜の枝に、色とりどりの綬帯鳥が群れ飛ぶというパラダイスに通じるイメージが、優美な感覚で表現されています。
江戸時代 17-18世紀
(展示期間:2021年5月11日から5月30日)
紫陽花蒔絵印籠(あじさいまきえいんろう) 銘 芝山易政筆 附属 象牙金鳳凰根付
江戸で活躍した印籠の名工・芝山家初代易政(やすまさ)の作で、鉄刀木(たがやさん)と呼ばれる黒い木地に、色ガラスや、金・蠟石(ろうせき)・鼈甲(べっこう)など、色とりどりの素材を嵌め込んだ複雑な象嵌(ぞうがん)技法が駆使されています。象嵌部分の盛り上がりが、紫陽花の手毬のようなボリュームと良く調和しています。
江戸時代 19世紀
百花百草図屏風(ひゃっかひゃくそうずびょうぶ)
金箔地に豊かな色彩で描かれた花々により、右隻から左隻へと四季が展開していきます。ときおり画面の上端から現れる藤などの花木や、背の高い蒲(がま)、ボリュームのある薄(すすき)など、花の配置によってリズムが創り出されており、作品に深みを与えています。江戸時代後期の復古やまと絵派の絵師・田中訥言(とつげん)の最高傑作と評されます。
田中訥言筆 岡谷家寄贈 重要文化財
江戸時代 19世紀
(展示期間:2021年5月11日から5月30日)
葵紋鳳凰蒔絵螺鈿飾太刀拵
(あおいもんほうおうまきえらでんかざりたちごしらえ)
梨子地に、鳳凰(ほうおう)とも綬帯鳥(じゅたいちょう)ともみえる瑞鳥(ずいちょう)と葵紋をあしらった太刀拵です。瑞鳥は、花の折枝をくわえる伝統的な花喰鳥(はなくいどり)としてデザインされています。花喰鳥の文様は古代ペルシアに起源があり、中国をへて日本にもたらされ、奈良時代には盛んに用いられました。
徳川斉荘(尾張家12代)・慶勝(同家14代)所用
江戸時代 天保10年 <1839>
唐胴鶴香炉・菊折枝蒔絵香炉台
(からどうつるこうろ・きくおりえだまきえこうろだい)
長い頸をひねり、芦(あし)の葉を踏んで立つ鶴を象った大型の香炉です。羽根部の取り外しができ、胴部で香を焚く構造で、羽根の間に設けられた三日月状の隙間と嘴(くちばし)から香りが漂う仕組みです。しなやかな曲線を描く細い頸や丸みを帯びた胴など、優美な姿を良く捉えており、鶴特有の気品を醸し出しています。
江戸時代 19世紀
俊恭院福君(尾張家11代斉温継室)所用
百鳥図(ひゃくちょうず) 五巻の内
身近に見る鳥から鳳凰(ほうおう)などの瑞鳥(ずいちょう)まで百種の鳥が、各鳥に相応しい花や情景とともに描かれています。墨線の筆致も彩色も丁寧で、巻き進めるごとに、美しい鳥が目を悦ばせます。本品は、中国・清から徳川将軍家へもたらされた原本を、尾張徳川家が借用し模写させた品で、珍鳥の図譜(ずふ)として鑑賞されたと考えられます。
神谷晴真・宋紫岡筆
江戸時代 19世紀
会期中場面替えあり
本文終了